岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

テキストデータ 全元論 著書、作品集、図録

 (18)セザンヌもゴッホも見えている通りに描いている

投稿日:

 (18)セザンヌもゴッホも見えている通りに描いている(88頁)

一生ただ、絵だけをやってきた僕が、こんな世界観の所まで来ることができたのは、つまり「世界がそうなっている」ということである。今伝えたいことは、僕の個人的な世界観の主張ではなく、世界がそうなっているということを伝えたいのだ。

存在の全体があって、時間と空間と存在は、今、今、今と連続して現成しているけれど、この形(かたち)、すなわち全体を通貫しているものが真・善・美である。いや、この全体は実在なのだから、全体の存在が真善美そのものである。数学もそうだ。真とは、数字という記号の集合のことではなくこの世界存在のことを表象しているのだ。美術はこれが美しいと言っている。善を受け持つ宗教の分野では、お釈迦さまも道元も、ただ「そうなんだ」と言っていて「私を拝みなさい」とは言っていない。ただひたすら「世界はそうなんだよ。こうなっているのだよ」と言っているのだ。万有引力はニュートンが発見する前からあったし、発見した後も、ニュートンの死後もあり続けるのであるし、猿も枝から手を離せば落ちることを知っている、鳥も羽ばたきを止めれば落ちることを知っている。地球上のすべての存在は、真善美の法に含まれ、その全体の構造の形態を構成している。神も、仏も、真善美も、自我も、すべてがこの今に、オールオーバーに差別なく現成していて、分けられない。だから、今在るものは、過去にもあったし、未来にもある。逆に、今在るものは、別世界から湧いたり降ってきたものはない。

こう見てくると、今、目の前にある世界はなんとも凄いだろう。じつに広大無辺である。決して誇大妄想ではなく、昔から言われていたことが、連綿と残っているわけである。それに僕が出会うわけで、イーゼル絵画で世界のことをはっきりと知ることができた。思い返すと、子どもの頃からいろんなものに出会っていた。それが、がっちりと全元論というところに行き着いた。夢の中の空間(注)なども全部そうである。

イーゼル絵画をずっと続けていたら、僕のような境地に到達できるかというと、誰でも大丈夫である。世界がそうなっているのだから、僕に限ったことではない。方向さえ合っていたら、周利槃特でさえ十六羅漢の一人にまでなったのだから、世界がそうなのだから誰にでも平等に漏らすことなく開かれているのである。

だから道元から800年後の僕が、絵だけを描いて生きてきた僕がこうやって出会うわけで、世界を正確にきっちりと理解すれば、出会うことが出来る。ただし分かりにくいのは3Dアート(ランダムドットステレオグラム)のようなもので、見えている人は立体を見て描いている。世界のカオスのアトランダムなドットしか見えない人には、「世界はこうなっているだろう」と言っても、香厳が悟る前のように何を言っているか分からないし、問題の意味さえ分からない。禅問答のように思ったり、何かがどこかから飛んできて天才にしか見えないとか、天才と狂人は紙一重だとか自分とは別のものと考えたりする。ランダムなドットしか見えない人は、そう解釈するしかない。

3Dアートは見えない人には見えない。しかし見えている人には見えていて、セザンヌの絵を見ていると、セザンヌは見て描いているのだ。ゴッホだって見て描いている。ゴッホが見て描いているのに、立体が見えない人つまりランダムなドットしか見えない人には、ゴッホの絵が描写とは思えない。描写と思わずに、無理やりにねじ曲げて天才的な造形力で、デフォルメで描いていると思っている。しかしゴッホは形をわざと変えるのではない。見えているとおりに描いている。

つまり認識の仕方が違うのだ。セザンヌやゴッホにはあのように見えている。そうでないと、モデルが必要ないという話になる。モデルがいないと描けないのは、見ているから。立体があのように見えているからセザンヌはそう描いている。立体がありありとそのように見えているから描いている。決してデフォルメしているのではない。裸眼のリアリズムなのである。西洋美術史は、クールベの物のリアリズムから、モネの光りの関係の印象派にいき、セザンヌの光りと空間(フォルム)の後期印象派へと描写絵画は続くのである。

ここが絵画の一番分かりにくいところであって、ほとんどの絵や小説は、ランダムなドットの世界を一生懸命にランダムなドットのままに、こうだろうと言いながら扱っているわけだ。夏目漱石も、石川啄木もそうである。セザンヌは見えている立体を描いているのに、ピカソ以後の現代美術が、裸眼のリアリズムのセザンヌの絵を曲解して、人間の創造力、造形力で自然を造り変えていく方向に進んできたのだ。そして今、対象を前にして見て描くイーゼル画の画家は、ほとんどいなくなってしまった。

道元は、くどいくらいに懇切丁寧に説いている。しかしそれでも分かりにくい。ランダムなドットしか見えない人には、禅問答が分かりにくいのと同様に、道元の話も分からない。ところが一方で、周利槃特はある時に悟った。パッと見えてしまったのだろう。見える瞬間、一番の瞬間というのが香厳撃竹である。僕も2010年からのイーゼル絵画の体験と、ちょうどその前後から読み始めた道元の本の体験で、縦の軸がきちんとパアっと見えてきた。「ああ、自分という存在だって現成している」ということだ。

-テキストデータ, 全元論, 著書、作品集、図録

執筆者:

関連記事

(2)超越

(2)超越(18頁) 僕は意志が強いように思われているが、その事は私の性格とは無関係なのだ。自己の内部に超越を抱え込んだ人間は、それを行動の最上部に置くので、他の事をさておいてそうせざるをえない。 自 …

嶺北だより(2023年)

嶺北だより(2023年)  2023.09.19 【嶺北だよりプロローグ】 明日朝、始発のバスで四国の棚田を描きに行きます。1週間滞在し、四国の帰りに玉野に寄り、来月の始めに帰柏します。それまでルーテ …

御殿場だより

御殿場だより(2012年)  2012.07.12 【裸眼の富士山】 東伊豆の畳の部屋の仮アトリエから、今度の借家はフローリングなので、画の道具がまだ揃わず、今週はロケハンだけで終わった。遠景が肉眼よ …

(34)少年が遊びから学んだこと

(34)少年が遊びから学んだこと(106頁) たとえば当時の玉の社宅の子供は、こういうゲームをして遊んだ。二人から五人くらいで、ビ-玉(ランタン)を握って、皆の合計数を当てた人が全部貰える。数を言う順 …

(73)画面に白のパートがどこかにあった方がいいが、なくてもいい

(73)画面に白のパートがどこかにあった方がいいが、なくてもいい(255頁) 絵を描くって、本当に面白いんだ。どうでもいい人には、どうでもいい。画面の中に白いパートがあろうがなかろうが他人にとっては「 …