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(12)「天地一杯」の先人たち

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(12)「天地一杯」の先人たち(67頁)

禅宗は自力本願と言われるけれど、そもそもお釈迦さまは拝む対象ではない。自己は何かというと「天地一杯」である。つまり、存在全体はフラクタルな形態なのだから、マンデルブロー集合のように、微小な部分も全体と自己相似形で天地一杯なのである。達磨は廓然無聖と言っているように、そこには「自己」とかそんなものはない。神も、仏も、自我も、物自体も、存在全体から分けられないし、今ここから分けて別の時空に存在することはあり得ない。だから、拝む対象としての神も、拝む自己も世界全体から分けて存在できない。主観(内)も客観(外)も分けられない。心も身体(からだ)も分けられない。そういった形態(ゲシュタルト)で存在は、今ここに現成公案しているのだ。

その辺が分かると、自己というものは、世界の構造と同じものがその中にもあるのだ。全体と自己相似形で、しかも細胞レベルまでずっと続く。人間のこの複雑な身体も、もとは一個の卵である。卵子が一個あって細胞としては一個から始まる。そして、各細胞は、外部を動脈の血液で取り込み、静脈で排泄しながら、身体全体は分裂しても分裂しても、情報は全部つながっている。この一個の中に、時間と空間が凝縮され而今(にこん)の存在というものがある。そうやって、ずっと分裂していって一人の赤ん坊になって出産する。

各々の時間をすべて積算して今がある。これは天地一杯ではないか。精神として考えなくても物としてもそうなっている。人間だけでなく、身近にある物も全部、天地一杯の結果としてここに現成している。これを懐弉も、弘忍も、よく分かっていた。弘忍も五祖だから、慧能を見て「こいつ、分かっているな」と思ったであろう。突然に弟子入りしてきて、その働きぶりを見ていたのだろう。そういったエピソードが、お釈迦さまや道元の周りに、もうたくさんあって、滅茶苦茶に面白いのだ。

禅問答というくらいだから、最初は何を言っているか僕も理解できなかった。しかし、分かってくると全部、過去の人物もただ物語とか禅の寓話というのでなく、あの時代にそういう生き方をした人間が累々と存在したということが、じつに素晴らしいと思う。今と同じように生きて、たぶん今より生きること自体がもっと厳しい時代に、そんな生き方があり、実際に生きたのだ。

こういう人物は、外国では奇人変人の部類に入れられるだろう。西欧でもアッシジの聖フランチェスコなどもいて、たいへん似ている。世界がそうなのだから、あちらにもいる。そしてやはり宗教的奇人扱いされている。一般の人の生き方と違って、芸術家も宗教家もおよそ奇人変人にされてしまう。しかし日本人の場合は、一般の人にもその辺りがよく分かるのだ。芭蕉の句をよく理解できる。

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