読書ノート(2023年)
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『般若心経 金剛般若経』中村 元・紀野 一義 訳注 岩波文庫
般若心経
■全知者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
シャーリープトラよ、
この世においては、物質的現象(注1)には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得る)のである。
実体(注2)がないからといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして)およそ物質的現象とというものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。(11頁)
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ。(11頁)
この世においては、、すべて存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく(注1)、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリープトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識のりょういきにいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなるなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。(13頁)
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真言であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
ガテー ガテー バーラガテー バーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。)
ここに智慧の完成の心が終わった。(15頁)
般若心経 注
(7)五蘊;「五つの集り」の意。色(物質的現象)と受想行識(精神作用)の五つによって一切の存在が構成されていると古代のインド仏教徒は考えたのである。(20頁)
(8)一切の苦役厄を度したまえ;「一切の災厄をとり除く」の意。(20~21頁)
(10)色;物質的現象として存在するもののこと。(21頁)
(11)空;「なにもない状態」というのが原意である。これはまたインド数学ではゼロ(零)を意味する。物質的存在は互いに関係し合いつつ変化しているのであるから、現象としてはあっても、実体として、主体として、自性としては捉えるべきもがない。これを空という。しかし、物質的現象の中にあってこの空性を体得すれば、根源的主体として生きられるともいう。この境地は空の人生観、すなわち空観の究極である。(21頁)
(12)受想行識;「受」は原語ヴェーダナーの訳である。vedana はvid (知る)から作られた語である。本書では「感覚」と訳しておいた。
「想」は原語サンジャニャーの訳。本書では「表象」と訳しておいた。
「行」は原語サンスカーラの訳。「意志」と訳しておいた。「意志的形成力」といえばもっと近いであろう。
「識」は原語ヴィジュニャーナの訳である。ふつう六識に分けていう。眼・耳。鼻・舌・身・意という六種の認識作用が、形・声・香・味・触れられるもの・心の対象を認識する働きを総称してここで「識」という。ここでは「知識」と訳しておいた。(21~22頁)
(17)シャーリープトラ;その原名は Sariputra である釈尊の高足の弟子の一人。智慧第一といわれた。シャーリーとは、さぎの一種で、プトラとは「子」と言う意味であるから「鶖鷺子」と訳されることがある。(23頁)
(19)物質的現象には実体がない……;「色空空性是色」である。物質的存在をわれわれは現象として捉えるが、現象というものは無数の原因と条件によって刻々変化するものであって、変化しない実体よいうようなものは全然ない。また刻々変化しているからこそ現象としてあらわれ、それをわれわれが存在として捉えることもできるのである。
(20)実体がないといっても……;「色不異空空不異色」と漢訳されている。われわれとしては、実体がないという渾沌とした主客未文の世界を、唯一のもの、全一なもの、一即一切一切即一なるものとして、実感の上で掴まなければならない。しかし、そのためには、現象にまず眼を向け、仮に、これを頼りとし手掛かりとして行かねばならない。現象は、実体がないことにおいて、言いかえると、あらゆるものと関係し合うことによって初めて現象として成立しているのであるから、現象を見すえることによって、一切が原因と条件によって関係し合いつつ動いているというこの縁起の世界が体得できるはずである。(25頁)
(23)生ぜず滅せず--;すべての存在するものは根源的には空なるものであって、生ずることも滅することもないの意。また不生不滅は、「すべての存在するものには実体がないという特性がある」ことにおいて言われていることである。実体がない(空)よいうことは、相関的(縁起・相依性)ということである。ことに中論では『不生不滅なる縁起』ということを冒頭にかかげているほどである。この意味では、生を離れた滅はなく、滅を離れたせいはないという解釈も成り立つ。真言密教では「阿字本不生」を言う。梵字の阿字はすべての語の根本であるだけではなく、一切万有のこんげんであり、この根源的な一者がそのまま森羅万象と現れ、根本も不生、万物も不生であるという。江戸時代の禅僧盤珪は「不生にして黎明なもの」「不生の仏心」を説いて倦まなかった。
(24)垢つかず浄からず--;すべての存在するものは、本来、清浄であるとも不浄であるとも言えないものであるの意。不生不滅と同じく、汚れを離れた清浄さはなく、清浄さを離れた汚れはないという解釈をなし得る。
(25)増さず、減らず--;存在を、渾沌たる主客未分の一なる世界を摑むときには、増すことも、減ることもないのである。(27~29頁)
(29)滅;滅(mirodha)という語をチベットでは「制する」という意味に解していた。また遡って原始仏教聖典の中の古い詩によると mirodha とは「制する」という意味である。例えば「欲望を制する」というのと、「欲望を滅す」というのとでは大変な相違である。この点でこの漢訳語は誤解を起すおそれがあった。(31頁)
(29)菩提薩埵;原語ボーディサットヴァ(bodhisattva)の音訳。註(5)を参照。→菩薩;原語ボーディサットヴァ(bodhisattva)の音訳。「さとりを求める者」の意。本書では「求道者」と訳してある。菩薩という称号は、元来はジャータカすなわち前生物語のなかで、釈尊の前生における呼び名として釈尊を意味して用いられていたものである。大乗仏教興起時代に革新的な仏教者たちが、すべての人間は仏たり得ると確信し、さとりを求めて努力する者すべてボーディサットヴァと呼びならわすようになってからは、求道者一般を指す言葉となった。(31~32頁)
(32)心に罣礙なし;罣とは引っ掛けるの意。礙はさまたげる、あるいは、さわり、障碍の意。原語アーヴァラナは、「覆うもの」の意であり、ここでは、「心を覆うものがない」という意味となる。こころを覆うものがないとは、迷悟・生死・善悪等の意識によって心を束縛されることがないという意味である。(32頁)
(34)涅槃を究竟す;涅槃は原語ニルヴァーナ(nirvana)の音訳。一切の迷いから脱した境地をいう。小部経典ウダーナ(『自説経』)の一節にニルヴァーナを説明して次のようにいう。「修行者たちよ、そこには地も水も火も風もなく、空観の無限もなく、識の無限もなく、無一物もなく、想の否定も非想の否定もなく、この世もかの世もなく、日も月も二つながらない。修行者たちよ、わたしはこれを来ともいわず、去ともいわず、住ともいわず、死ともいわず、生ともいわない。よりどころなく、進行なく、対象のない処、これこそ苦の終りであるとわたしはいう。修行者たちよ、生じないもの、成らぬもの、造られないもの、作為されないものがある。修行者たちよ、もしその、生ぜず、成らず、造られず、作為されないものがないならば、そこには、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離はないであろう。修行者たちよ、生ぜず、成らず、造られず、作為されないものがあるから、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離があるのである。」(33頁)
(43)阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい);原語アヌッタラー・サムヤックサンボーディの音訳。無上正等正覚と意訳する。「この上もない、正しく平等な目ざめ」「完全なさとり」の意である。仏の覚りを指していう。(35頁)
(44)大神咒(だいじんしゅ);原語マハー・マントラの訳。神の字は漢訳者の挿入であり、不思議な霊力を意味するとかんがえられる。マントラは通常、「咒」「明咒」「真言」と訳される。仏教以前に古くヴェーダにおいては、宗教的儀式に用いられる神歌のことであり、リチュ、ヤジャス、サーマンの三種から成っていた。マントラはバラモン出身の修行僧によって仏教の教団にも持ち込まれ、ブッダは初めこれを禁じたが、後に毒蛇・歯痛・腹痛等を治癒させる呪は使用を許可した。大乗仏教においてはダーラニー(陀羅尼)と並んで広く用いられるようになった。特に密教では、マントラあるいはダーラニーは真理そのものであると尊重し、翻訳することなくそのまま口に誦える。誦えれば真理と合一することができると説かれる。如来の真実の語であるとして真言というのである。(35~36頁)
(49)心;原語フリダヤの訳である。フリダヤとは心臓の意味であるが、ここでは精髄・精要を意味する。心臓を尊ぶ思想は、ウパニシャッドにまで遡ることができる。ウパニシャッドでは、心臓はアートマン(我)の宿る場所、であると説かれ、さらには、フリダヤは心であると説かれ、ブラフマンであると説かれた。たとえば、「これすなわち心臓の内部にそんするわがアートマンである。」「ブラフマンは心である。」そこでは、巨大なブラフマン(宇宙我)が、人間の心臓の中にあるアートマンと同質であり、同一であると考えられている。この思想をうけて、ブラフマンに相当する「空」の世界が、心臓にも比すべきこの短い真言の中に、全的に表現されている、納められているという意味で、この真言をフリダヤと名づけたのでないかと思われる。しかしやがて密教ではフリダヤを心に対して肉団心(心臓のかたちをとって現れている心)として特別の意味をこつようになる。この点でも『般若心経』は後代の密教的解釈を容れ得る可能性をもっている。(37~38頁)
金剛般若経(金剛般若波羅蜜経)(1)
尊ぶべき、神聖な、智慧の完成に礼(らい)したてまつる。
1 わたくしが聞いたところによると、――あるとき師は、千二百五十人もの多くの修行僧たち〔と、多くの求道者・すぐれた人々〕とともに、シュラーヴァスティー市のジュータ林、孤独な人々に食を給する長者の園に滞在しておられた。
さて師は、朝の中に、下衣をつけ、鉢と上衣とをとって、シュラーヴァスティー大市街を食物を乞うて歩かれた。師はシュラーヴァスティー大市街を食物を乞うて歩かれ、食事を終えられた。食事が終ると、行乞から帰られ、鉢と上衣をかたづけて、両足を洗い、設けられた座に両足を組んで、体をまっすぐにして、精神を集中して坐られた。そのとき、多くの修行僧たちは師の居られるところに近づいた。近づいて師の両足を頭に頂き、師のまわりを右まわりに三度まわって、かたわらに坐った。
2 ちょうどそのとき、スプーティ長老もまた、その同じ集まりに来合わせて坐っていた。さてスプーティ長老は座から起ちあがって、上衣を一方の肩にかけ、右の膝を地につけ、師の居られる方に合掌して次のように言った。(43頁)
「師よ、すばらしいことです。幸ある人よ、まったくすばらしいことです、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人によって、求道者・すぐれた人々が《最上の恵み》につつまれているということは。師よ、すばらしいことです。如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人によって、求道者・すぐれた人々が《最上の委嘱》をあたえられているということは。
ところで、師よ、求道者の道に向かう立派な若者や立派な娘は、どのように生活し、どのように心を保ったらよいのですか。」
このように問われたとき、師はスプーティ長老に向かって次のように答えられた――
「まことに、まことにスプーティよ、あなたの言う通りだ。如来は求道者・すぐれた人々を最上の恵みでつつんでいる。如来は求道者・すぐれた人々に最上の委嘱を与えている。だからスプーティよ、聞くがよい。よくよく考えるがよい。求道者の道に向かう者はどのように生活し、どのように行動し、どのように心を保つべきであるかということを、わたしはあなたに話して聞かせよう。」
「そうして下さいますように、師よ。」と、スプーティ長老は師に向かって答えた。
3 師はこのように話し出された。(45頁)
「スプーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。すなわち、スプーティよ――
『およそ生きもののなかまに含められるかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎からうまれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれず自から生まれ出たもの、形のあるもの、形のないもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるのでもなく無いのでもないもの、その他生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、《悩みのない永遠の平安》という境地に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはない。』と。
それはなぜかというと、スプーティよ、もしも求道者が、《生きているものという思い》をおこすという思い》は《個人という思い》などをおこしたりするものは、もはや求道者とは言われないからだ。(47頁)
4 ところで、また、スプーティよ、求道者はものにとらわれて施しをしてはならない。なにかにとらわれて施しをしてはならない。形にとらわれて施しをしてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれて施しをしてはならない。
このように、スプーティよ、求道者・すぐれた人々は、跡をのこしたいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。
それはなぜかというと、スプーティよ、もしも求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳が積み重なって、たやすくは計りしられないほどになるからだ。スプーティよ、どう思うか。東の方の虚空の量は容易に計り知られるだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、答えられません。」
師は言われた――「スプーティよ、これと同じことだ。もし求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳の積み重なりはたやすくは計り知られない。(49頁)
実にスプーティよ、求道者の道に向かうものは、このように、跡を残したいという思いにとらわれまいようにして施しをしなければならないのだ。」(51頁)
5 「スプーティよ、どう思うか、如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そう見るべきではありません。如来は特徴をそなえたものと見てはならないのです。それはなぜかというと、師よ、〈特徴をそなえているということは徴をそなえていないことだ〉と、如来が仰せられたからです。」
このように答えられたとき、師はスプーティ長老に向かって次のように言われた――「スプーティよ、特徴をそなえているといえば、それはいつわりであり、特徴をそなえていないといえば、それはいつわりではない。だから、特徴があるということと、特徴がないということとその両方から如来を見なければならないのだ。」(51頁)
6 このように言われたとき、スプーティ長老は、師に向かって次のように訊ねた――「師よ、これから先、後の時世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃には、このような経典の言葉が説かれても、それが真実だと思う人々が誰かいるでしょうか。」(51頁)
師は答えられた――「スプーティよ、あなたはそういう風に言ってはならない。これから先、後の時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、このような経典の言葉が説かれるとき、それが真実だと思う人々が誰かいるに違いない。
スプーティよ、また、これから先、後の時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、徳高く、戒律を守り、智慧深い求道者・すぐれた人々は、このような経典の言葉が説かれるとき、それは真実だと思うに違いない。スプーティよ、また、かれら求道者・すぐれた人々は、ひとりの目ざめた人(仏)に近づき帰依したり、ひとりの目ざめた人のもとで善の根を植えたりしただけではなく、何十万という多くの目ざめた人々(諸仏)に近づき帰依したり、何十万という多くの目ざめた人々のもとで善の根を植えたりしたことのある人々であって、このような経典の言葉が説かれるとき、ひたすらに清らかな信仰を得るに違いないのだ。
スプーティよ、如来は目ざめた人の智慧でかれらを知っている。スプーティよ、如来は目ざめた人の眼でかれらを見ている。スプーティーよ、如来はかれらを覚っている。スプーティよ、かれらすべては、計り知れず、数えきれない功徳を積んで、自分のものとするようになるに違いないのだ。(53頁)
それはなぜかというと、スプーティよ、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、生存するものという思いも、個体という思いも、個人という思いもおこらないからだ。また、スプーティよ、これらの求道者・すぐれた人々には、《ものという思い》もおこらないし、同じく、《ものでないものという思い》もおこらないからだ。また、スプーティよ、かれらには、思うということも、思わないということもおこらないからだ。それはなぜかというと、
スプーティよ、もしも、かれら求道者・すぐれた人々に、《ものという思い》がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうから。
もしも、《ものでないものという思い》がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうからだ。
それはなぜだろうか。
実にまた、スプーティよ、求道者・すぐれた人々は、法をとりあげてもいけないし、法でないものをとりあげてもいけないからだ。(55頁)
それだから、如来は、この趣意で、つぎのようなことばを説かれた―-『筏の喩えの法門を知る人は、法さえも捨てなければならない。まして、法でないものはなおさらのことである。』と。」
7 さらに、また、師はスプーティ長老に向かってこのように問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来が、この上ない正しい覚りであるとして現に覚っている法がなにかあるのだろうか。また、如来によって教え示された法がなにかあるのだろうか。」
こう問われたときに、スプーティ長老は師に向かってこのように答えた――「師よ、わたくしが師の説かれたところの意味を理解したところによると、如来が、この上ない正しい覚りであるとして現に覚っておられる法というものはなにもありません。また、如来が教え示されたという法もありません。それはなぜかというと、如来が現に覚られたり、教え示された法というものは、認識することもできないし、口で説明することもできないからです。それは、法でもなく、法でないものでもありません。それはなぜかというと、聖者たちは、絶対そのものによって顕(あらわ)されているからです。」(57頁)
8 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。立派な若者や、あるいは立派な娘が、この《はてしなく広い宇宙》を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施したとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるのであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、幸ある人よ、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるのです。それはなぜかというと、師よ、〈如来によって説かれた、功徳を積むということは、功徳を積まないということだ〉と如来が説かれているからです。それだから、如来は、〈功徳を積む、功徳を積む〉と説かれるのです。」
師は言われた――「そこでスプーティよ、立派な若者や立派な娘があって、このはてしなく広い宇宙を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施すとしても、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人たちのために詳しく示し、説いて聞かせる者があるとすれば、こちらの方が、このことのために、もっと多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、実に、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめたひとびとの、この上ない正しい(59頁)覚りも、それから生じたのであり、目ざめた人である世尊らもまた、それから生まれたからだ。それはなぜかというと、スプーティよ〈目ざめた人の理法、目ざめた人の理法というのは、目ざめた人の理法ではない〉と如来が説いているからだ。それだからこそまた目ざめた人の理法と言われるのだ。」(61頁)
9•a (世尊がいわれた――)「スプーティよ、どう思うか。《永遠の平安への流れに乗った者》が、〈わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そういうことはありません。永遠の平安への流れに乗った者が、〈わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすはずはありません。それはなぜかというと、師よ、実に、彼はなにものも得ているわけではないからです。それだからこそ、《永遠の平安への流れに乗った者》と言われているのです。かれは、かたちを得たのでもなく、声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象、を得たわけでもありません。それだからこそ、《永遠の平安への流れに乗った者》と言われるのです。師よ、もしも、永遠の平安への流れに乗った者が、(61頁)〈わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」
9•b 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。《もう一度だけ生まれかわって覚る者》が、〈わたしは、もう一度だけ覚る者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そういうことはありません。もう一度だけ生まれかわって覚る者が、〈わたしは、もう一度だけ覚る者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、もう一度だけ生まれかわって覚る者になったといっても、なにもそういうものがあるわけではないからです。それだからこそ、《もう一度だけ生まれかわって覚る者》と言われるのです。」
9•c 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。《もう決してうまれかわって来な(63頁)い者》が、〈わたしは、もう決して生まれかわって来ない者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そういうことはありません。もう決して生まれかわって来ない者が、〈わたしは、もう決して生まれかわって来ない者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、もう決して生まれかわって来ない者になったといっても、なにもそういうものがあるわけではないからです。それだからこそ、
《もう決して生まれかわって来ない者》と言われるのです。」
9•d 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が、〈わたしは、尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこすだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そういうことはありません。尊敬さるべき人が、〈わたしは、尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、尊敬さるべき人といわれるようなものはなにもないからです。それだからこそ、《尊敬さるべき人》と言われるのです。師よ、もしも、尊敬さるべき(65頁)人が、〈わたしは尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこしたりしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。(67頁)
9•e それはなぜかというと、師よ、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人は、わたくしのことを、《争いのない境地を楽しむ第一人者》と仰されました。師よ、わたくしは、尊敬さるべき人であり、欲望をはなれている〉というような考えはおこしません。師よ、もしも、わたくしが、〈わたしは尊敬さるべき人という状態に達している〉というような考えをおこしていたとするならば、如来がわたくしのことを『立派な若者であるスプーティは、争いをはなれた境地を楽しむ第一人者であり、どこにもとらわれないから、争いをはなれた者である。争いをはなれた者である』などと断言したりはなさらなかったでありましょう。」(67頁)
10•a 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来が尊敬さるべき人・正し(67頁)く目ざめた人であるディーパンカラ(然燈)如来のみもとで得られたものが、なにかあるだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そういうことはありません。尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで得られたものは、なにもありません。
10•b 師は言われた――「スプーティよ、もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建設をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、かれは間違ったことを言ったことになるのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、如来は〈国土の建設、国土の建設というのは、建設でないことだ〉と説かれているからだ。それだからこそ、〈国土の建設〉と言われるのだ。
10•c それだから、スプーティよ、求道者・すぐれた人々は、とらわれない心をおこさなければならない。何ものかにとらわれた心をおこしてはならない。形にとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象、にとらわれた(69頁)心をおこしてはならない。
スプーティよ、たとえば、ここにひとりの人がいて、その体は整っていて大きく、山の王スメール山のようであったとするならば、スプーティよ、どう思うか。かれの体は大きいであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、それは大きいですとも、幸あるひとよ、その体は大きいですとも、それはなぜかというと、師よ、如来は、『体、体、というがそんなものはない』と仰せられたからです。それだからこそ、〈体〉と言われるのです。師よ、それは有でもなく、また、無でもないのです。それだからこそ、〈体〉と言われるのです。」(71頁)
11 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。ガンジス大河の砂の数だけガンジス河がるとしよう。それらの河にある砂は多いであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、それだけのガンジス河でさえも、おびただしい数にのぼりましょう。まして、それらのガンジス河にある砂の数にいたってはなおさらのことです。」
師は言われた――「わたしはあなたに告げよう。スプーティよ、あなたによく理解させ(71頁)よう。それらのガンジス河にある砂の数だけの世界を、ある女なり、あるいは男なりが、七つの宝で満たして、如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人々に施したとしよう。スプーティよ、どう思うか。その女なり、あるいは男なりは、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるのであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、幸ある人よ、その女なりあるいは男なりは、そのことによって、多くの、多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積んだことになるのです。」
師は言われた――「実に、また、スプーティよ、ある女なり、あるいは男なりがそれだけ、もしも立派な若者や、あるいは立派な娘が、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々のために示し、説いて聞かせるとすれば、こちらの方が、このことのために、いっそう多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積むことになるのだ。
さらにまた、スプーティよ、どのような地方でも、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、話したり、説いて聞かせたりされるとすれば、その地方は、神々と人間とアスラたちを含む世界にとって、塔廟にもひとしいものになるだろう。ましてや、この法門を(73頁)余すところなく記憶し、読み、研究し、他の人々のために詳しく説いて聞かせる者どもがあるとすれば、スプーティよ、かれらは《最高の奇端をそなえた者》となるに違いない。
スプーティよ、そういう地方には師と仰がれる者が住み、また、さまざまな《聡明なる師の地位にある者》が住むのだ。」
13•a このように言われたときに、スプーティ長老は師に向かって次のように問うた――「師よ、この法門の名は何と申しますか。また、これをどのように記憶したらよいでしょうか。」
このように問われたときに、師はスプーティ長老に向かって次のように答えられた――「スプーティよ、この法門は《智慧の完成》と名づけられる。そのように記憶すればよい。それはなぜかというと、スプーティよ、『如来によって説かれた《智慧の完成》は、智慧の完成ではない』と如来によって説かれているからだ。それだからこそ、〈智慧の完成〉と言われるのだ。
13•b スプーティよ、どう思うか。如来によって説かれた法というものがなにかあるだ(75頁)ろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そういうものはありません。如来によって説かれた法というものはなにもありません。」
13•c 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。このはてしなく広い宇宙の大地の塵は多いであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、それは多いですとも。幸ある人よ、それは多いですとも。それはなぜかというと、師よ、『如来によって説かれた、大地の塵は、大地の塵ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ、大地の塵と言われるのです。また、『如来によって説かれたこの世界は、この世界ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ〈世界〉と言われるのです。」
13•d 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人は、偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。如来・尊敬すべき人・正しく目(77頁)ざめた人は偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるものではありません。それはなぜかというと、実に、師よ、『如来によって説かれた、偉大な人物に具わる三十二の特徴は、特徴ではない』と如来が説かれているからです。それだからこそ、〈偉大な人物に具わる三十二の特徴〉と言われるのです」
13•e 師は言われた――「また、実にスプーティよ、ひとりの女、または男が、毎日、ガンジス河の砂の数だけの体を捧げ、このように捧げつづけて、ガンジス河の砂の数ほどの無限の時期のあいだ、その体を捧げつづけたとしても、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々のために教え示し、説いて聞かせる者があるとすれば、こちらの方が、このことのために、いっそう多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積むことに」なるであろう。」
14•a そのとき、スプーティ長老は、法に感動して涙を流した。かれは涙を拭ってから、師に向かってこのように言った――「師よ、すばらしいことです。幸ある人よ、まったくすばらしいことです。《この上ない道に向かう人々》のために、《もっとも勝れた道に向か(79頁)う人々》のために、この法門を如来が説かれたということは、そして、師よ、それによって、わたくしに智が生じたということは。
師よ、わたくしは、このような種類の法門を未だかって聞いたことがありません。師よ、この経が説かれるのを聞いて、真実だという思いを生ずる求道者は、この上ない、すばらしい性質を具えた人々でありましょう。それはなぜかというと、師よ、真実だという思いは、真実でないという思いだからです。それだからこそ、如来は、〈真実だという思い、真実だという思い〉と説かれるのです。
14•b〔しかし、師よ、この法門が説かれているときに、わたくしがそれを受け入れ、理解するということは、それほど難しいことではありません。しかし、師よ、これから先、後の時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、ある人々がこの法門をとりあげて、記憶し、誦(とな)え、研究し、他の人々のために、詳しく説明するでありましょうが、その人々はもっともすばらしい性質を具えた者ということになるでありましょう。〕
14•c けれども、また、師よ、実にそれらの人々には、自己という思いはおこらないし、(81頁)生きているものという思いや、個体という思いや、個人という思いもおこらないでありましょう。また、それらの人たちには、思うということも、思わないということもおこりません。それはなぜかというと、師よ、自己という思いは思わないということにほかなりませんし、生きているものという思いも、個体という思いも、個人という思いも、思わないということに他ならないからでです。それはなぜかというと、みほとけである世尊らは、一切の思いを遠く離れていられるからです。」
14•d このように言われたよき、師はスプーティ長老に向かってこのように言われた――「その通りだ。スプーティよ、その通りだ。この経が説かれるときに、驚かず、恐れず、恐怖に陥らない人々は、この上ない、すばらしい性質をそなえた人々である。それはなぜかというと、スプーティよ、如来の説かれたこの最上の完成は、実はかんせいではないからだ。またスプーティよ、如来が、最上の完成であると説いたそのことを、無量の、目ざめた人々である世尊らがまた説いているからだ。それだからこそ、〈最上の完成者〉と言われるのだ。(83頁)
14•e けれども、さらにまた、スプーティよ、実に、如来における忍耐の完成は、実は完成ではないのだ、それはなぜかというと、スプーティよ、かって或る悪王がわたしの体や手足から肉を切りとったその時にさえも、わたしには、自己という思いも、生きものという思いも、個体という思いも、個人という思いもなかったし、さらにまた、思うということも、思わないということもなかったからである。
それはなぜかというと、スプーティよ、もしも、あの時に、わたしに自己という思いがあったとすると、その時にまたわたしに、《怨みの思い》があったに違いないし、もしも、生きているものという思いや、個体という思いや、個人という思いがあったとすると、その時にまたわたしに、怨みの思いがあったに違いないからだ。
それはなぜかというと、スプーティよ、わたしはありありと思い出す。過去の世に、五百の生涯の間わたしが《忍耐を説く者》(Kasantivadin)という仙人であったことを。その際にもわたしには、自己という思いはなかったし、生きているものという思いもなかったし、個体という思いもなかったし、個人という思いもなかったからだ。
それだから、スプーティよ、求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはなら(85頁)ない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。方にとらわれた心をおこしてはならない。法でないものものにとらわれた心をおこしてはならない。どんなものにもとらわれた心をおこしてはならない。それはなぜかというと、とらわれているということは、とらわれていないということだからだ。それだから如来は、〈求道者はとらわれることなく施しをしなければならぬ。かたちや、声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれないで、施しをしなければならぬ〉と説かれたのだ。
14•f さらに、また、スプーティよ、実に求道者は、生きとし生けるもののために、このような施しを与えなければならない。それはなぜかというと、スプーティよ、この生きものという思いは、思いでないということに他ならないからだ。このように、如来が生きとし生けるものと説かれたこれらのものどもは、実は生きものではない。それはなぜかというと、スプーティよ、如来は真実を語る者であり、真理を語る者であり、ありのままに語るものであり、あやまりなく語る者であるからだ。如来はいつわりを語る者ではないのだ。(87頁)
14•g さらに、また、スプーティよ、実に、如来が現に覚られ、示され、思いめぐらされた法の中には、真理もなければ、虚妄(こもう)もない。スプーティよ、これをたとえて言うと、〔たとい眼があっても〕闇の中に入った人がなにものも見ないようなものだ。ものごとの中に堕(お)ちこんだ求道者もそのように見なすべきである。かれはものごとの中に堕ちこんで施しを与えるのだ。
スプーティよ、また、これをたとえて言うと、眼をもった人は、夜が明けて太陽が昇ったときに、いろいろな彩(いろど)りを見ることができるようなものだ。ものごとの中に堕ちこまない求道者もそのように見なさるべきである。かれらはものごとの中に堕ちこまないで施しを与えるのだ。
14•h さてスプーティよ、実に、立派な若者たちや立派な娘たちが、この法門をとり上げ、記憶し、誦(とな)え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるとしよう。スプーティよ、如来は、目ざめた人の智慧でこういう人々を知っている。スプーティよ、如来は、目ざめた人の眼でこういう人々を見ている。スプーティよ、如来はこういう人々を覚っている。スプーティよ、これらすべての人々は、計り知れず、数えきれない福徳を積んで、自分のも(89頁)のとするようになるに違いないのだ。
15•a また、実に、スプーティよ、女なり、男なりがあって、午前中に、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、同じように昼間にも、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、夕刻にも、ガンジス河の砂のかずほどの体を捧げ、この方法によって、無限に永い間、体を捧げるとしても、この法門を聞いて謗(そし)ったりしないならば、こちらの方が、このことのために、さらに多くの、計り知れず、数えきれない福徳を積むことになるのだ。況(いわ)んや、書き写してから学び、記憶し、誦(とな)え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせる者があれば、なおさらのことだ。
15•b さらに、また、スプーティよ、実に、この法門は不可思議で、比べるものがない。スプーティよ、如来はこの法門を、この上ない道に向かう人々のために、もっとも勝れた道に向かう人々のために説かれた。ある人々は、この法門をとり上げ、記憶し、誦(とな)え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるだろう。スプーティよ、如来は、目ざめた人の智慧によってこういう人々を知っている。スプーティよ、如来は目ざめた人の目でこういう(91頁)人々を見ている。スプーティよ、如来はこういう人々を覚っている。これらすべての人々は、計り知れない福徳を積んだことになるだろう。不可思議で、比べるものがなく、限りなく、無量の福徳を積んだことになるだろう。スプーティよ、これらすべての人々は、みずから目ざめに与(あずか)るようになるだろう。
それはなぜかというと、この法門を、信解の劣った人々は聞くことができないからだ。自己に対する執着の見解ある人、生きているものに対する執着の見解ある人、個体に対する執着の見解ある人、個人に対する執着の見解ある人々は聞くことができないからだ。求道者の誓いを立てない人々は、この法門を聞いたり、あるいはとり上げたり、あるいは記憶したり、あるいは誦えたり、あるいは理解したりすることはできない。そのようなことわりはあり得ないのだ。
15•c けれども、さらにまた、スプーティよ、実に、どのような地方でも、この経が説かれる地方は、神々と人間とアスラたちを含む世界が供養すべきこととなるだろう。その地方は右回りに礼拝されることとなるだろう。その地方は塔廟(とうびょう)にもひとしいものとなるだろう。(93頁)
16•a けれども、スプーティよ、立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが辱しめられたり、また甚(はなはだ)しく辱しめられたりすることがあるかも知れない。これはなぜかというと、こういう人たちは前の生涯において、罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、この現在の生存において、辱しめられうことによって前の生涯の不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るようになるのだ。
16•b それはなぜかというと、スプーティよ、わたしはありありと思い出す。数えきれないほど無限の昔に、ディーパンカラ(燃燈)という如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人がおられ、それよりも以前、もっと以前に、数かぎりもない目ざめた人々がおられた。わたしは、これらの人々に仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせてはやめることがなかった。
スプーティよ、わたしはこれらの目ざめた人々・世尊がたに仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせるのを休むことはなかったけれども、後の時世になって第二の五百年代に正しい教えが(95頁)亡びる頃になって、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え,理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせる者があるとすれば、スプーティよ、また、実に、こちらの方の福徳の積みかたに比べると、前の方の福徳の積みかたは、その百分の一にも及ばないし、千分の一にも、百千分の一にも、億分の一にも、百億分の一にも、百千億分の一にも、百千億兆分の一にも、及ばないのだ。数量にも、区分にも、計算にも、譬喩にも、類比にも、相似にも、堪(こた)えることができないのだ。
16•c また、スプーティよ、もしもわたしが、これらの立派な若者たちや、立派な娘たちの積む福徳について説明するとしたらならば、その際にこれらの立派な若者たちや立派な娘たちが、、どれだけ福徳を積んだり、身につけたりするかを聞くに及んで、人々は気が変になったり、心が散乱したりするようになるだろう。さて、また、スプーティよ、実に、この法門は不可思議であると、如来は説かれたが、その酬(むく)いも不可思議であると期待されるのだ。」
17•a そのとき、スプーティ長老は、師に向かって次のように問うた――「師よ、求道(97頁)者の道に進んだ者は、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか。」
師は答えられた――「スプーティよ、ここに、求道者の道に進んだ者は次のような心をおこすべきだ。すなわち、『わたしは生きとし生ける者を、汚れのない永遠の平安という境地に導き入れなければならない。しかも、このように生きとし生ける者を永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはないのだ。』と。
それはなぜかというと、スプーティよ、もしも求道者が、《生存するもの》という思いをおこすとすれば、かれはもはや求道者とは言われないからだ。個体という思いや、乃至(ないし)個人という思いなどをおこしたりするものは、求道者とは言われないからだ。
それはなぜかというと、スプーティよ、〈求道者の道に向かった人〉というようなものはなにも存在しないからだ。
17•b スプーティよ、どう思うか。如来がディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらがなにかあるのだろうか。」
このように問われたときに、スプーティ長老は師に向かって次のように答えた――「師(99頁)よ、わたくしが師の仰られた言葉の意味を理解しているかぎりでは、如来が、尊敬さるべき人、正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもありません。」
このように言われたとき、師はスプーティ長老は向かってこのように言われた――「そのとおりだ、スプーティよ、そのとおりだ。如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもないのだ。
スプーティよ、もしも、如来が現に覚られた法がなにかあるとするならば、ディーパンカラ如来がわたしのことを、『若者よ、あなたは未来の世に、シャーキャムニという名の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人となるだろう』などと予言したりはなさらなかっただろう。
けれども、スプーティよ、今、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しい覚りとして現に覚られたような法はなにもないのだから、それだから、わたしは、ディーパンカラ如来によって『若者よ、あなたは未来の世に、シャーキャムニという名の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人となるだろう。』と予言されたのだ。(101頁)
17•c それはなぜかというと、スプーティよ、〈如来〉というのは、これは、真如の異名なのだ。
〔スプーティよ、如来というのは、これは、生ずるということはないという存在の本質の異名なのだ。スプーティよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スプーティよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということの異名なのだ。それはなぜかというと、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。〕
17•d スプーティよ、もしも誰かが、『如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しい覚りを現に覚られた』と、このように言ったとすると、その人は誤りを言ったことになる。スプーティよ、かれは、真実でないことに執着して、わたしを謗(そし)っていることになるだろう。それはなぜかというと、スプーティよ、如来がこの上もない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらはなにのないからだ。また、スプーティよ、如来が現に覚り示された法には、真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は、『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。(103頁)
それはなぜかというと、スプーティよ、『あらゆる法というものは実は法ではない』と、如来によって説かれているからだ。それだからこそ《あらゆる法》と言われるのだ。
17•e たとえば、スプーティよ、身が整い、身の大きな人があると言うようなものだ。」
スプーティ長老は言った――「師よ、如来が、〈身が整い身の大きな人〉と説かれたかの人は、師よ、実は体のない人であると、如来は説かれました。それだからこそ、〈身が整い、身が大きい〉と言われるのです。」
17•f 師は言われた――「スプーティよ、そのとおりだ。もしも、ある求道者が『わたしは生きとし生けるものどもを永遠の平安に導くだろう』と、このように言ったとすれば、その人は求道者であるとは言うことはできない。それはなぜかというと、スプーティよ、一体、かの求道者と名づけられるようなものがなにかあるのだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。かの求道者と名づけられるようなものはなにもありません。」
師は言われた――「スプーティよ、『〈生きているもの〉〈生きているもの〉というのは、実(105頁)は生きているものではない』と如来は言っている。それだからこそ、生きているものと言われるのだ。それだから、如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには、生きているというものはない。個体というものはない。個人というものはない』と言われるのだ。
17•g スプーティよ、もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建築をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、このひともまた同様に(求道者ではないと)言わなければならない。それはなぜかというと、スプーティよ、如来は、『〈国土の建設〉、〈国土の建設〉というのは、建設でないことことだ』と説いているからだ。それだからこそ、〈国土の建設〉と言われるのだ。
17•h スプーティよ、もしも、求道者が、〈ものには自我がない。ものには自我がない〉と信じて理解すれば、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人は、その人を求道者・すぐれた者であると説くのだ。
18•a 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。如来には肉眼があります。」
師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。如来には天眼があります。」
師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。如来には智慧の眼があります。」
師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。如来には法の眼があります。」
師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来には目ざめた人の眼(仏顔)があるだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。如来には目ざめた人眼があります。」
18•b 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。ガンジスの大河にあるかぎりの砂、その砂を如来は説いたであろうか。」(109頁)
スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。幸ある人よ、そのとおりです。如来はその砂を説かれました。」
師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。ガンジスの大河にあるかぎりの砂の数だけ、ガンジス河があり、そしてそれらの中にある砂の数だけの世界があるとすれば、その世界は多いであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。幸ある人よ、そのとおりです。その世界は多いでありましょう。」
師は言われた――「スプーティよ、これらの世界にあるかぎりの生きものたちの、種々さまざまな心の流れをわたしは知っているのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、『〈心の流れ〉〈心の流れ〉というのは、流れではない』と、如来は説かれているからだ。それだからこそ、〈心の流れ〉と言われるのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、過去の心はとらえようがなく、本来の心はとらえようがなく、現在の心はとらえようがないからなのだ。
19 スプーティよ、どう思うか。立派な若者や、娘が、このはてしなく広い宇宙を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施したとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの福徳を積んだことになるだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、多いですともす。幸ある人よ、多いですとも。」
師は言われた――「そのとおりだ、スプーティよ、そのとおりだ。立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、『〈功徳を積む〉〈功徳を積む〉ということは、積まないということだ』と如来が説いているからだ。それだからこそ、〈功徳を積む〉と言われるのだ。スプーティよ、もしも、功徳を積むということがあるとすれば、如来は、〈功徳を積む〉〈功徳を積む〉とは説かなかったであろう。
20•a スプーティよ、どう思うか。如来を、端麗な身体を完成しているものとして見るべきであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。如来を、端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。それはなぜかというと、師よ、『〈端麗な身体を完成している〉〈端麗な身体を完成している〉というのは、実はそなえていないというこ(113頁)となのだ』と、如来が説かれているからです。それだからこそ、〈端麗な身体を完成している〉と言われるのです。」
20•b 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。如来を、特徴をそなえたものであると見なしてはならないのです。それはなぜかというと、師よ、『特徴をそなえていると如来の説かれたことは、実は特徴をそなえていないということだ』と如来が仰せられたからです。それだからこそ、〈特徴をそなえている〉と言われるのです。」
21•a 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。〈わたしが法を教え示した〉というような考えが如来におこるだろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。〈わたしが法を教え示した〉というような考えが如来におこことはありません。」
師は言われた――「スプーティよ、『如来は法を教え示した』と、このように説く者が(115頁)あるとすれば、かれは誤りを説くことになるのだ。スプーティよ、かれは、真実でないものに執着して、わたしを謗(そし)るものだ。それはなぜかというと、スプーティよ、〈法の教示〉〈法の教示〉というけれども、法の教示として認められるようなことがらはなにも存在しないからだ。」
21•b このように言われたときに、スプーティ長老は師に向かって次のように問うた――「師よ、これから先、後の世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、このような法を聞いて信ずるような人々が果たしているでありましょうか。」
師は答えられた――「スプーティよ、かれらは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。それはなぜかというと、スプーティよ、『〈生きているもの〉〈生きているもの〉というものは、すべて、生きているものでないということだ』と如来が説かれているからだ。それだからこそ、〈生きているもの〉と言われるのだ。
22 スプーティよ、どう思うか。如来が、この上ない正しい覚りを覚ったというようなことがなにかあるだろうか。」(117頁)
スプーティ長老は答えた――「師よ、そういうことはありません。如来が、この上ない正しい覚りを覚られたというようなことはなにもありません。」
師は言われた――「そのとおりだ。スプーティよ、そのとおりだ。微塵ほどのことがらもそこには存在しないし、認められはしないのだ。それだからこそ、《この上ない正しい覚り》と言われるのだ。
23 さらに、また、スプーティよ、実に、その法は平等であって、そこにおいてはいかなる差別もない。それだからこそ、《この上ない正しい覚り》と言われるのだ。この、この上ない正しい覚りは、自我がないということにより、生きているものがないということにより、個体がないということにより、個人がないということによって、平等であり、あらゆる善の法によって現に覚られるのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、『〈善の法〉〈善の法〉というのは法ではない』と如来は説いているからだ。それだからこそ、〈善の法〉と言われるのだ。
24 さらに、また、スプーティよ、実に、ひとりの女あるいはひとりの男が、このはてしな(119頁)く広い宇宙にあるかぎりの、山々の王スメールの数だけの七つの宝を集めて持っていて、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施すとしても、また他方で、立派な若者やあるいは立派な娘が、この智慧の完成という法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々に説いたとすれば、スプーティよ、前の方の功徳の積み方は、こちらの方の功徳の積み方に比べると、その百分の一にも及ばないし、乃至、類似にも堪えることができない。
25 スプーティよ、どう思うか。〈わたしは生きているものどもを救った〉というような考えが、如来におこるだろうか。スプーティよ、しかし、このように見なしてはならないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、如来が救ったというような生きものはなにもないからである。また、スプーティよ、如来が救ったというような生きものがなにかあるとすれば、如来に、自我に対する執着が、生きているものに対する執着が、個体に対する執着が、個人に対する執着があることになるだろう。スプーティよ、『自我に対する執着とは執着がないということだ』と如来は説かれた。しかし、かの愚かな一般の人たちは、それに執着するのだ。スプーティよ、〈愚かな一般の人たち〉というのは、愚かな一般の人(121頁)たちではないにほかならぬ』と如来は説いた。それだからこそ、《愚かな一般の人たち》と言われるのだ。
26•a スプーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものであるとして見るべきであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。如来を、わたくしが師の仰られた言葉の意味を理解しているところによると、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのです。」師は言われた――「まことに、まことに、スプーティよ、そのとおりだ、スプーティよ、あなたの言うとおり、そのとおりだ。如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、もしも、如来が特徴をそなえたものであると見られるようであるならば、転輪聖王もまた如来であるということになるだろう。それだから、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ。」
スプーティ長老は、師に向かって次のように言った――「師よ、わたくしが師の仰せらられた言葉の意義を究めたところによると、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのです。」(123頁)
さて、師は、この折に、次のような詩を歌われた。
かたちによって、わたしを見、
声によって、わたしを求めるものは、
まちがった努力にふけるもの、
かの人たちは、わたしを見ないのだ。
〔目ざめた人々は、法によって見られるべきだ。
もろもろの師たちは、法を身とするものだから。
そして法の本質は、知られない。
知ろうとしても、知られない。」
27 スプーティよ、どう思うか。特徴をそなえていることによって、如来は、この上ない正しい覚りを現に覚ったのか。けれども、スプーティよ、あなたはそのように見てはならないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、特徴をそなえていることによって、如来が、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことはないからだ。さらに、また、スプーティよ、実に、誰かが、『求道者の道に向かう者には、なにかの法が滅んだり、(125頁)断ちきられたちするようになっている』と、このように言うかも知れない。けれども、スプーティよ、このように見てはならない。それはなぜかというと、求道者の道に向かう者には、いかなるものも滅びたり、断ち切られたりするようになってはいないからだ。
28 さらに、また、スプーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、ガンジス河の砂の数だけの世界を七つの宝で満たして、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。他方では求道者が、〈法は自我というものがなく、生ずることもない〉と認容し得たとすれば、この方が、そのことによって、計り知れず数えきれないほどにさらに多くの功徳を積んだことになるだろう。けれども、また、実に、スプーティよ、求道者・すぐれた人は、積んだ功徳を自分のものにしてはならないのだ。」
スプーティ長老は訊ねた――「師よ、求道者は、積んだ功徳を自分のものにすべきではないのでしょうか。」
師は答えられた――「スプーティよ、自分のものにすべきであるけれども、固執すべきではない、そういう意味をこめて、《自分のものにすべきではない》と言われているのだ。
29 さらに、また、スプーティよ、実に、もしも誰かが、『如来は去り、あるいは来り、あるいは住し、あるいは坐り、あるいは床に臥す』と、このように説くとすると、その人は、スプーティよ、わたしが語った言葉の意味を理解していないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、如来と言われるものは、どこへも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、《如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人である》と言われるのだ。
30•a さらに、また、スプーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、たとえば、このはてしない宇宙にあるかぎりの大地の埃の数だけの世界を、無数の努力によって、原子の集合体のような粉にした場合に、スプーティよ、どう思うか、その原子の集合体は、多いであろうか。」
スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。幸ある人よ、そのとおりです。その原子の集合体は多いのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、原子の集合体が実有(じつう)であったとすれば、師は、《原子の集合体》と説かれなかったであろうからです。それはなぜかというと、師よ、『如来が説かれたかの原子の集合体は、集合体ではない』と如来が(129頁)説いておられるからです。それだからこそ、《原子の集合体》と言われるのです。
30•b また、『如来が説かれたはてしない宇宙は宇宙ではない』と如来は説かれています。それだからこそ、《はてしない宇宙》と言われるのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、宇宙というものがあるとすれば、《全一体という執着》があることになりましょう。しかも、『如来が説かれた全一体という執着は、実は執着ではない』と如来が説かれています。それだからこそ、《全一体という執着》と言われるのです。」
師は言われた――「スプーティよ、《全一体に対する執着》は、言葉で表現できないもの、口で言えないようなものだ。それはものでもないし、《ものでないもの》でもない。それは、愚かな一般の人々が執着するものなのだ。
31•a それはなぜかというと、スプーティよ、誰かが、『如来は自我についての見解を説いた。生きているものについての見解、個体についての見解、個人についての見解を如来は説いた』と説いたとしよう。スプーティよ、その人は正しく説いたということになるだろうか。」(131頁)
スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。幸ある人よ、そうではありません。その人は正しく説いたことにはなりません。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれた、かの自我についての見解は、見解ではない』と如来が説かれているからです。それだからこそ、《自我についての見解》と言われるのです。」
31•b 師は言われた――「スプーティよ、実に、そのとおりだ。求道者の道に進んだ者は、すべてのことがらを知らねばならないし、見なければならないし、理解しなければならない。しかも、ことがらという思いさえも止まらないように、知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、『ことがらという思い、ことがらという思いというのは、実は思いではない』と如来が説かれたからだ。それだからこそ、《ことがらという思い》と言われるのだ。
32•a さらに、また、スプーティよ、実に、求道者・すぐれた人が、計り知れず、数えきれないほどの世界を、七つの宝で満たして、諸の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。また他方では、立派な若者や立派な娘が、この智慧の完成という(133頁)法門から四行詩ひとつでも、とり上げて、記憶し、誦(とな)え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせたとすれば、この方が、そのことによって、計り知れず、数えきれないほどの、さらに多くの功徳を積むことになるのだ。それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ、《説いて聞かせる》と言われるのだ。
現象界というものは、
星や、眼の翳(かげ)、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡(うたかた)や、
夢や、電光や、雲のよう、
そのようなものと、見るがよい。」
師はこのように説かれた。スプーティ上座は歓喜し、そして、これらの修行僧や尼僧たち、在家の信者や信女たち、また、〔これらの求道者たちや、〕神々や人間やアスラやガンダルヴァたちを含む世界のものどもは、師の説かれたことをたたえたという。
切断するものとしての金剛石、聖なる、尊むべき、智慧の完成、終る。(135頁)(金剛般若経終わり)
*****
金剛般若経 註
2 天竺三蔵——天竺とはインドのこと。三蔵とは経・律・論の三蔵(すなわち仏教聖典の三つの区分)に通暁した僧を指していう。ただし鳩摩羅什(くまらじゅう)は純粋のインド人ではないが、インド文化圏である中央アジアから来たので、このように呼んだのである。(136頁)
3 鳩摩羅什(くまらじゅう)――クマーラジーヴァ(344-413)の音訳。中央アジアの亀茲(きじ)国(現名クッチャ)の生まれである。父はインド人で、母は亀茲国の王の妹であった。諸方を遊学して後、亀茲国で大乗仏教を宣揚し、401年に姚秦(ようしん)の国王姚興(ようこう)に迎えられて長安に入り、13年間に300余巻の経典を漢訳した。かれの歿年に関しては種々の異説があるが、最近の研究によると、かれは弘始11年(409年)に歿したと解するのが、最も穏当であり、かれは、52歳(401年)の末から60歳(409年)まで長安で活動した。(塚本善隆博士、「鳩摩羅什の活動年代について」『印度学仏教学研究』第三巻第二号、1955年、224-226頁)(136頁)
8 求道者――「求道者」とは bodhisattva の訳である。漢訳では「菩薩」と音写し、「大士」「開士」などと訳す。(138頁)
11 シュラーヴァスティー市――「舎衛城(しゃえいじょう)」と漢訳される。仏陀の外護者プラセーナジット王(波斯匿(はしのく)王)の居住地で、コーサラ国の首都であった。仏教史上著名な大都市。(138頁)
12 ジェータ林――祇樹給孤独園に同じ。(138頁)
17 スプーティ――「須菩提」と音写し、「善現」「善吉」「善実」「妙生」など種々に訳される。仏弟子の一人。(139頁)
19 善男子善女子――原語 kula-putra,kula-duhitrの慣用句的訳語。kulaは「家族・種族」、特に「良家」の意で、「善」の意味はないが、kula-putraというときは、「生まれ正しい息子」kula-duhitrというときに「生まれ正しい娘」となる。本書では「立派な若者」「立派な娘」と意訳しておいた。(139頁)
20 阿耨多羅三獏三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心――「この上ない正しい覚り(無上正等覚)に向かう心」の意。(139頁)
26 求道者の道に向かう――直訳すれば、「菩薩の乗り物で進んで行く者」という意味。(141頁)
29 無余涅槃――仏教徒の理想であるニルヴァーナに二種ある中の一である。一切の煩悩を断ち切って本来の生死の原因を無くした者が、なお体だけを残しているのを有余涅槃と言い、その体までも無くしたとき、無余涅槃という。具体的に言えば、無余涅槃とは迷いが全く無い状態で死し、永遠の真理に還って一体となったことを指している。(141頁)
30 他から生まれず自から生まれたもの――原語はupapadukaである。普通は「化生(けしょう)」と漢訳されている。托する所なしに忽然として生まれたものである。神々(諸天)や宇宙の最初の人などはこれに属する。(141~142頁)
34 生きているものという思い――原語sattva-samijnaの訳。実態としての生きものが実存するという考えを指す。この他、自我atman・個体jiva・個人pudgalaなどを実体視するのは求道者の態度としてふさわしくないと言われている。(142頁)
37 チベット訳では「求道者はものにとらわれることなしに施しをす〔べきである〕」となっている。以下同様に「いかなるもの(法)にもよらわれることなしに施しをし、形にもとらわれることなしに施しをす〔べきである〕という。クラーマジーヴァの漢訳も同様である。(143頁)
40 跡をのこしたいという思い――原語 nimitta-samjna の訳。ニミッタとは事物の表相のことである。具体的には私が・誰に・何をしてやった、という三つの念を離れて施与せよ、ということを教えているのである。これを仏教では「三輪空寂」とか「三輪清浄」という。「三輪」とは「施者」「受者」「施物」をいう。(143頁)
51 筏の喩えの法門……――筏の喩えは多くの経典に記されている。たとえば、(中略)〔修行僧たちよ、このように、わたしは、のり超えさせるために、執着させないために、筏の喩えの法を説いた。修行僧たちよ、実に筏の喩えを知る汝らは、法さえも捨離しなければならない。まして、法でないものはなおさらのことである。〕唯識説の開祖マイトレーヤは、法には教示の法と証得の法と二種あって、教示としての法が筏に喩えられるのだという。(146頁)
59 須陀洹(すだおん)――「預流(よる)」「入流(にゅうる)」とも意訳される。迷いを断ち切って始めて聖者の琉類に入った者という意。聖者の段階をあらわす小乗仏教の聖者の階梯である「四向(しこう)」または「四果(しか)」の初位である。原語を直訳すれば、「流れに入った」であるが、本書では「永遠の平安への流れに乗った者」と訳してある。(148頁)
61 斯陀含(しだごん)――「一来(いちらい)」と意訳される。小乗仏教の聖者の階梯である四向または四果の第二位。原語を直訳すれば、「一度来る者」ということである。インドでは、覚った聖者は再び生をうけることがないと言われるが、斯陀含は天か人かの世界にもう一度だけ生まれかわって覚り、それ以後はもう死後の天か人かの世界に生をうけることがないのである。すなわち人間の世界にあってこの果を得ると、必ず天上に往き、再び人間の世界に還ってきてニルヴァーナに入る。また天井の世界でこの果を得ると、先ず人間の世界に往き、再び天上に還ってニルヴァーナに入る。このように必ず一度天上と人間世界とを一往来するがゆえに、一往来果ともいう。(148~149頁)
62 阿那含(あなごん)――「不還(ふげん)」「不来」と意訳する。原語を直訳すれば、「決して帰って来ない者」ということである。欲界の煩悩を断じ尽くした聖者をいう。この聖者は欲界の煩悩を断ちつくしていて、死後には色界、無色界に生じ、欲界には二度と生をうけないから、不還・不来などとよばれるのである。小乗仏教の聖者の階梯としての四向または四果の第三位である。(149頁)
73 まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし。―― この句は古来有名である。日本では歌題とされたことがある。『哀れなり雲井を渡る初雁も心あればぞねをば鳴くらん。』(続拾遺集)たとえば、愛して、愛にとらわれず、憎んで憎しみにとらわれない境地をいう(補註)。(151頁)
〔補註〕この句は特に南宋禅において重要視せられ、頓悟説の典拠の一つとされた。六祖慧能はこの句を聞いて悟ったといわれるが、それは後世に成立した伝えであるらしい。唐代の南宋禅では、「而生其辛(にしょうごしん)」の四字に深い意義を認め寂知(じゃくち)(本智)の用(はたらき)を強調する根拠としている。しかしともかくサンスクリット原文はこのように簡単なものである。86頁には「応生無所住心」とあるが、そこの原文には「どんなものにもとらわれた心をおこしてはならない」となっていて、漢訳は積極的な表現に改めたおもむきがある。(166~167頁)
88 塵―― 原語は rajas であるが、チベット訳は原子の意味に解している。クラマジーヴァ始め多くの訳者は「微塵(みじん)」と漢訳している。(153頁)
127 われに受記を与えて……――「受記」とは、ブッダが、ある人に対して、将来、目ざめた人になるだろうと予言することである。(159頁)
130 真如―― 宇宙の万有に普遍的にゆきわたっている永遠の真理をいう。(159頁)
131 生ずるということはないという存在の本質――常住不変な存在の根本的真理という立場から見れば、生起という現象はあり得ない。それが存在の本質(法性)だということである。(159頁)
141 すべてのものには生きているものというものはない……――マックス・ミュラー校訂本には(すべてのものには、個体というものはない、人格的存在というものはない)とある。(160頁)
『般若心経』解題
◾️ 日本の仏教はほとんどすべて大乗仏教に属するものであるが、大乗仏教の根本思想は空の理法をさとることであると言われている。空の理法は、詳しく説けば限りがなく、『大般若経』一巻の中におさまると言われている。そのためにこの『般若心経』(特に玄奘訳による)は、日本では浄土教以外の殆んどすべての宗派によって重んぜられ、講説され、読誦されている。
この経には大本(広本)と小本(略本)と二種のサンスクリット本が伝えられていて、ともに Prajnaparamita-sutra と称する。小本と大本とは所説の内容については差異はないが、大本は小本に相当するものの前後に序論(序分)と結末の文句(流通分)とがついている。
小本は玄奘訳の『般若心経』に相当するものであるが、興味深いことにはそのサンスクリット写本が、インドにも他のアジア諸国にも残っていないで、わが日本の法隆寺に保存されているのである。これは西紀609年(推古天皇17年)に小野妹子がシナから伝来したものであると伝えるが根拠は薄弱である。これの存在は日本では昔から知られていたらしく、江戸湯島の霊雲寺の浄厳(じょうごん)が法隆寺の原本を写したもの(1694年)が伝わっている。(かれの『普通真言蔵』中巻におさめられている。)また『阿叉羅帖』(安政6年)の中にも古体のサンスクリット文字(梵字)でしるされている。
法隆寺でこのような写本が発見されたことは、西洋のインド古文書学者にとっては大きな驚異であった。インド古文書学の確立者であったオーストリアのビューラー(Georg Buhler)は法隆寺写本について長文の論文を書いて、その学問的意義を論じていう、『法隆寺で発見された棕櫚(しゅろ)の写本は、同類の一切の古文書よりもはるかにすぐれている。古文書学者にとって至上の意義をもたらすものである。六世紀の始には北インドでは二つのやや異った字体の行われたことを示してくれた。またインドにおける碑文における字体の変化は一般文書の字体から影響されて起こったものであることも解った。』など。日本で発見された資料が、古代インド文化史の諸相をあきらかにしてくれたのである。(170~171頁)
◾️ 日本の註釈としては、
智光『般若心経述義』一巻(大正蔵、五七巻三頁以下、『日本大蔵経』般若部、三五八頁以下)
これは日本における最も古い註釈であり、三論宗の立場からのべられている。
天台宗には、
最澄『摩訶般若心経釈』一巻(日本大蔵経』、般若部、三七四頁以下)
があり、天台その他諸宗でもその後註釈が多数著された。
この経典は密教では特に重視された。
空海『般若心経祕鍵』一巻(大正蔵、五七巻、一一頁以下)
これは秘密真言の趣意によってクラーマジーヴァ訳の『般若心経』を解釈したものである。(180~181頁)
◾️ 盤珪(ばんけい)永琢(1622-1693)『心経鈔』(国文東方仏教叢書、続、第三巻、講説部)
日本で『般若心経』の講義がなされて千年になるのに、それは漢文ばかり書かれていた。われわれ日本人のことばで書かれることがなかった。ところが盤珪はこの習慣を意識的に破った。われわれは日本人だから、日本人の話す平生のことば(平話)で語るべきだというのである。
ところがどうしたことだろう。こういうはっきりした自覚を以て書かれたこの書が、日本の学者の編纂(へんさん)した『大正新修大蔵経』続編にも、『日本大蔵経』にも『大日本仏教全書』にも入っていない。一昔前までの仏教者は『般若心経』を講義する場合にもこの書を省みようとしなかった。近代日本の仏教学者までが、漢文で偉そうに書かれたものは尊く、われわれのことばで書かれたものは賤しいという驚くべき権威至上主義にとりつかれていたように見受けられるのである。(182頁)
大本『般若心経』邦訳
「このようにわたしは聞いた。あるとき世尊は、多くの修行僧、多くの求道者とともにラージャグリハ(王舎城)のグリドゥフラクータ山(霊鷲山)に在した。そのとき世尊は、深遠なさとりと名づけられる瞑想に入られた。そのとき、すぐれた人、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは、深遠な智慧の完成を実践しつつあったときに、見きわめた、――存在するものには五つの構成要素がある」――と。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。そのとき、シャーリプトラ長老は、仏の力を承(う)けて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラにこのように言った。「もしも誰か或る立派な若者が深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、どのように学んだらよいであろうか」と。こう言われたときに、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは長老シャーリプトラに次のように言った。「シャーリプトラよ、もしも立派な若者や娘が、深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、次のように見きわめるべきである――《存在するものには五つの構成要素がある。》と。そこでかれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして)、およそ物質的現象というものは、すべて実体がないことである。およそ実体がないということは、すべて物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域もなく、乃至、意識の領域もなく、心の対象の領域もなく、意識の識別の領域もない。
さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。かくて、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみをなくすことも、苦しみをなくす道もない。知ることもなく、得るところもない。得ないということもない。
それ故に、シャーリプトラよ、得るということがないから、求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顚倒(てんとう)した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去、現在、未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目覚めを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮める真言であり、偽りがないから真実であると。
その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。
シャーリプトラよ、深遠な智慧の完成を実践するときには、求道者はこのように学ぶべきである」――と。
そのとき、世尊は、かの瞑想より起きて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラに賛意を表された。「その通りだ、その通りだ、立派な若者よ、まさにその通りだ、立派な若者よ。深い智慧の完成を実践するときには、そのように行われなければならないのだ。あなたによって説かれたその通りに目ざめた人々・尊敬さるべき人々は喜び受け入れるであろう。」と。世尊はよろこびに満ちた心でこのように言われた。長老シャーリプトラ、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラ、一切の会衆(えしゅ)、および神々や人間やアスラやガンダルヴァたちを含む世界のものたちは、世尊の言葉に歓喜したのであった。
ここに、智慧の完成の心という経典を終わる。(193~196頁)
『金剛般若経』解題
◾️『金剛経』または『金剛般若経』というのは略称であって、詳しくいうと漢訳で『金剛般若波羅蜜経』として伝えられている経典である。諸の般若経典のうちで最も簡潔でひろくよまれているのが『般若心経』であり、それにつづいて広くよまれているのが『金剛経』である。
『金剛経』はすでにインドでも重んぜられていた。のちのインドの仏典の中にこの経典の文句が度々引用されている。またシナでも同様に重んぜられた、山東省の泰山の磨崖にこの経典の全文がきざみつけられてあるが、それは六朝時代の仕事であるといわれている。禅宗でも五祖弘忍以来特に重要視され、六祖慧能はまだまだ出家しないとき、人がこの経文を読誦するのを聞いて発心したという。日本の道元も
『曹渓の六祖は新州の樵人にて、薪を売って母を養いき。一日市にて客の金剛経を誦するを聴いて発心し、母を辞して黄梅に参ぜし時、銀子十両を得て母儀の衣料にあてたりと見えたり。』
といって、修行に入る人の覚悟のほどを説いている。日本では仏教諸宗で読誦されるのみならず、上代には歌題とされたこともある。(199~200頁)
◾️「能断金剛」(Vajracchedika)の意味については「金剛石(ダイヤモンド)のようによく切れる」または「金剛杵(雷)のようにひきさく」の意味であると解せられている。すなわち一切の疑いや執著を断ち切るという意味で、このように名づけられたのであると古来説明されている。(殊にシナの諸注釈では細かに論じている。)これに反してコータン語本が「金剛を断つ」と解釈していることは、すでにしるしたとおりである。(209頁)
◾️思想
いかなる宗教といえども善の行為を行うべきことを説く。その点では大乗仏教も同様である。しかしこの『般若経典』では倫理的実践を空の思想によって基礎づけているのである。人に何ものかを与えて助けるというこよは善い行為である。しかし、とらわれるところのない清らかな心でなさねばならぬ。『求道者はものにとらわれて施しをしてはならない。なにかにとらわれて施しをしてはならない。』(四節)チベット訳ではその趣意をもっと適切に『求道者はものにとらわれることなしに施しをしなければならぬ』という。世間で人が何か善いことをする場合にはとかくそれをはっきりした形に残してやがては自分の利益をはかろうとする場合も少なくない。だから、それを戒めて、『求道者・すぐれた人々は、跡をのこしたいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。』という。(なお14・e参照)求道者がもしも自分は人々を導くのだというような思いを起こしたならば、もはやかれは真実の求道者ではない。(17・f)
こういう理想を実現するためには自我と他の自我との対立感を撥無しなければならない。『それはなぜかというと、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、いきているものという思いも、個体とという思いも、個人という思いも怒らないからだ。』
対立の撥無(すなわち空)ということも、それにとどこおるならば、また新たな対立をよび起すことになる。対立の撥無はそれ自身を否定しなければならない。『これらの求道者・すぐれた人々には、《ものという思い》もおこらないし、同じく《ものでないものという思い》もおこらないからだ。かれらには思うということも、思わないということもおこらないからだ。』(六節)
宗教はドグマにもとづいて構成される。しかし真の宗教はドグマを捨てなければならぬ。『求道者・すぐれた人々は、法をとりあげてもいけないし、法でないものをとりあげてもいけない。……筏の喩えの法門を知る人は、法さえも捨てなければならない。まして法でないものはなおさらのことである。』(六節) 人をみちびく教えは筏のようなものである。人をわたして彼岸に至れば捨てられねばならない。筏である教義に固執するならば、宗教の真義を見失うことになる。こういう立場にもとづいて、さとりはさとりではない、とか、さとりというものはなにものも存在しない、とか、理想の境地(ニルヴァーナ)に達するということはあり得ないとか、否定的な表現がのべられるのである。(七節以下)
『真実もなければ虚妄もない』(17・d)とか、善と悪、さとりと迷いというような区別にとらわれることなかれ、という主張は、倫理的価値を破壊することになりはしないか、という疑問が、殊に西洋的知性の立場から発せられる。しかし大乗仏教の立場からいうと、反対である。とらわれることがなくなった境地に達すれば、行いはおのずから善に合致し、そこに対立をのこさない。技術を学ぶようなものである。例えばドライヴを習うとき、始めは非常な困難を意識し、一つ一つのことに気をくばる。しかしドライヴに熟達しきってしまうと、極めて安楽な気持で運転しながらも、決して規則を犯すことがない。ちょうどこういう境地をめざしていたのである。だからこそこの経典では、この境地を『全くすばらしいこと』と呼んでいるのである。(219~220頁)
2023年5月6日了
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『増谷文雄著作集 5 』仏陀の伝記 角川書店
(ハードカバーの本に付いていた小冊子から 1981・6)
波動と情感 紀野一義
私は増谷先生から直接教えを受けた者ではないが、先生のお書きになったものはほとんど眼を通し、いわば学恩を頂いた者の一人である。
殊にこの5年ほどの間、先生が角川書店からお出しになった『現代語訳・正法眼蔵』をテキストとして自宅で正法眼蔵の輪読会を開いて来たので、道元や正法贋造に傾けて来られた先生の情熱には打たれ通しだったといっていい。
正法眼蔵のような難解な、深い宗教的、哲学的思索に裏打ちされた文章は、どのように深く究めたとしても、なお、さまざまな異論が出るであろう。殊に先生のように曹洞宗の禅僧でなく、宗教学者として正法眼蔵の現代語訳に取り組んだ場合は、よけいに言われるであろう。そんなことはすべて承知の上で、あえて現代語訳を出された先生の勇気と情熱と深い研鑽に、私は無条件で脱帽する。現代語訳については先生と意見を異にする部分がいくつかあったが、これほど分り易く、みごとな現代語訳は他にないと私は思う。正法眼蔵を読みたいという者にはいつも、先生のこの現代語訳をすすめるのである。
私はこの四月から、もう十年以上も続いている谷中の全生庵での清風仏教文化講座で、新しく「正法眼蔵の十年連続長講」を開始した。四月の第一回に、広大な全生庵の本堂を埋めつくした聴衆に「これから十年間、正法眼蔵の連続長講を始めたい」と挨拶したら、堂内いっぱいに深い歎息が交響した。いずれも、十年後の自分の年を考えたのだそうである。私も十年経つと六十八歳になる。聴衆の中には、もう生きていないという人も何人かいると思われた。二十歳の娘さんも三十歳になり、妻となり子も何人も持つことになるのだ。「それでも来たい」と思ったという。そんな決心を私にさせたのは、増谷先生のこの著書なのであった。
先生の書かれるものには、一種独特の波動がある。すぐれた宗教的天才や、学者や、芸術家、文学者、詩人には、それぞれ独特の波動がある。その人物のまわりに、一種の生体磁気が漂うのである。それが、オーラとなって見えることもある。
道元や、日蓮や、親鸞にはそれぞれ独自な波動があって民衆を魅了し、弟子たちを信服せしめた。弟子をして信服せしめるのは、学殖ではなく、魂の波動である。
増谷先生が仏陀にひかれ、イエスにひかれ、道元にひかれ、親鸞にひかれ、日蓮にひかれて、おびただしい本を書かれたのは、それらの人々のずば抜けた波動もさることながら、これらの人々の波動に直ちに感応道交する波動を増谷先生自身が持っておられるからである。
先生の書かれたもので殊に心に残っているのは昭和三十一年に角川新書から出された『仏陀ーその生涯と思想』、昭和三十二年に同じ角川新書から出された『現代仏教入門』である。いずれもこの著作集の中に収められると思われるが、私はこの二冊を大学で宗教学を講義する時のテキストに使わせて頂いた。その時の学生たちの感銘は今も忘れがたい。
先生の文章には独特のリズムと詩情があって人を魅了する。それは、ドイツ人がしばしば言う「ゲミュート」がるということであろうか。訳しようないこの言葉を私は仮に「詩的情感」と呼ぶのである。ゲミュートを持たない文学者をドイツ人は「ディヒター」(文豪)とは呼ばない。ディヒターとは「詩人」の意であるが、それよりも「文豪」というに近い。壮年期に至って詩を歌うことのなくなる日本の文学者はほとんど文豪と呼ばれる資格がないことになる。
先生は詩は歌われないが、仏陀について語る先生の文章は、散文で書かれた詩の如くである。
人は、すでに死に絶えた人間について詩を歌うことはできない。仏陀は、学問的には紀元前383年にこの世を去ったとされるが、増谷先生の心魂の中では、今もなお、われわれの間に生きつづけている人間として把握されている。
生きている人間として把握するのでなくては、あのようにいきいきと語ることはできないであろう。
それは、イエスについても、鎌倉期の傑僧たちについても同じである。増谷先生に最も近い祖師は法然上人であったと思うが、日蓮の書簡に寄せる先生の情熱は、法然上人に寄せる情熱にいささかも劣らぬものであった。先生はしばしば比較宗教学の立場に立って発言されるが、比較して優劣を論ずるのではなく、ひかくすることによってその二つのものの根底にある深くして微かなものに近づこうとされる。詩人的素質なくしては叶わぬことを先生は易々と行って来られたのであった。敬慕さざるを得ぬ所以である。(真如会主幹)
仏教のことば(3)〈説法〉ということ
増谷文雄
(1)
このまえは、〈法〉について申しあげた。そこには、いろいろの用法があった。その最後にあげていったことは、〈法〉とはまた「教法」を意味するということであった。だが、わたしどもは知らねばならない。それらさまざまの用法は、まったく別々のものではなく、やはり、いずれもが内的関係をもって結ばれているもの。すなわち、諸法→法則→善行→教法である。ところが、そのような法を説くということ、すなわち、〈説法〉ということは、どうやら、まったく新しいことであったらしい。では、その〈説法〉ということを別立してここに語っておきたいと思う。
それについて、まず思い出すのは、「算数家目犍連経」(南伝、中部経典、107。漢訳、中阿含経、144、算数家目犍連経)という阿含経の一経のことである。そこで、食村が、数学者のモッガラーナ(目犍連)に答えて、「如来はただ道を教えるのみ」といっていることが、はなはだ含蓄ふかく思われる。
すでにいうように、釈尊の道は智慧の道である。それは神に哲禱をささげることではなかった。あるいは、定まれる儀礼の施行をこととするものでもなかった。それは、万法と人間の真相を把握して、われらの行くべき方途を教えることである。さきにいうところの〈正〉とは、その道における主観の要請である。また、〈法〉とは、その道における客観の真相である。そして、〈説法〉は、その道における人間のありようを、人から人に伝える営みであった。
しかるに、そのような営みは、インドの思想界においても、釈尊以前には見ることをえないのである。
リグ・ヴェーダ(梨具吠陀)のリシ(諸聖)たちは、興奮のたかまるままに、神々にむかって、讃歌を詠じた。ブラーフマナ(波羅門)たちは、定まれる儀礼のままに、神々を勧請し、詠歌をとなえ、祭供をならべ、そして祈禱を述べた。またウパニシャッド(奥義書)の師たちは、その極意とするところをひとり握りしめて、容易に弟子に明かさなかった。それを釈尊は〈渥拳(あくけん)〉と呼んだ。一つの経(南伝、長部経典、16、大般涅槃経)によれば、釈尊は、アーナンダ(阿難)にさとして、こう仰せられたという。
「アーナンダよ、比丘たちはわたしに何を待望するか。私は、内外の区別なく、ことごとく法を説いた。アーナンダよ、如来の法には、あるものを弟子に隠すというような教師の渥拳はないのである」
また、おなじ経によると、この師は、その大いなる死の直前にあたりアーナンダに論(さと)して、つぎのように仰せられたこともあった。
「アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた法と律とは、わが亡きのちに汝らの師である」
では、いったい、釈尊がその説法なるものを発想したのは、いつのことであったであろうか。
一つの小さな経(南伝、相応部経典、6、2、恭敬。漢訳、雑阿含経、44、11、尊重)は、正覚の直後、なおネーランジャラー河のほとり、アジャパーラ・ニグローダの下に坐す釈尊が、“ただ独り坐し、静かに物思いし”て、かように考えたもうたと記している。
「尊敬するところもなく、恭敬するものもない生き方は苦しい。わたしは、いかなる沙門もしくは波羅門を尊び敬い、近づきて住すればよいであろうか」
“近づきて住する”とは、入門を意味する。釈尊はすでに正覚を成就した。だが、ひとりこの正覚を抱いていることは“苦しい”という。誰ぞそのような正覚を抱く“沙門・波羅門”でもあらば、その下に入門をでもと考えてみるが、そのような者はどこにもない。そこに梵天が現れて、「過去の正覚者も、未来の正覚者も、法を尊び敬い、近づいて住した。いまの正覚者なる世尊も、法こそ尊敬し、近づいて住するがよい」と奨めた。それは、神話的表現形式をもって記された微妙な心事であって、つまるところ、説法の問題が、はじめて釈尊の胸中に芽生えてきた消息を語っているのである。
さらに、一つの経(南伝、相応部経典、61、勧請。漢訳、増一阿含経、19、1)は、釈尊が、なおアジャパーラ・ニグローダの樹下に坐して、「もしわたしがこの法を説いても、人々がわたしのいうところを理解しなかったならば、わたしはただ疲労し困憊(こんぱい)するばかりであろう」と思い悩んでいる場面を描いている。すると、梵天が、その心中の思いを知って、「これでは世間は滅びる。正覚者の心は躊躇(ちゅうちょ)に傾き、法を説くことに傾いていない」と、梵天界をくだって世尊のまえに現れ、「世尊よ、法を説きたまえ」と勧請した。それもまた、神話的表現形式をもって記された説法の決意の消息を語っているのである。
そして、やがて釈尊は、かの樹下を立ち出でて、はるばるバーラーナシーのイシバタナ・ミガダーヤ(仙人住処・鹿野苑)におもむき、そこで五人の比丘たちを前にして、「如来所説」(南伝、相応部経典、56、11、如来所説。漢訳、雑阿含経、15、17、転法輪)と呼ばれる最初の説法を展開した。それを仏教者は「初転法輪」と呼ぶ。(おわり)
2023年5月25日了
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『驢鞍橋』鈴木正三著 鈴木大拙校訂 岩波文庫
解説
一、略傳
鈴木正三は、参州西加茂郡足助の人、天正七年(西、1579)に生まれた。鈴木家の遠祖は紀州熊野に住み、初代に重忠なるものがあり、その十餘代の孫に重基があり、更に十餘代を經て重次があり、正三はその長子である。三河に移り住したのは重基の時で、郷邑の戦亂に際して邑人に擁せられて將となり、為めに重んぜられたといふ。重次には正三、重成の二子があった。正三は弟の重成に家を譲り、自らは高橋庄の七十騎の某の家を嗣いで九太夫と號した。七十騎といふのは官に役せず、随意に軍陣に望んで功をなす武士の一團であった如くである。徳川家康が坂東を鎭するに及んで、この七十騎を總之上にうつしたが、正三もこの一團と共に鹽子に往った。
正三は早くから生死の問題に凝滞して佛門に志し、十七歳の時に寶物集に載する涅槃經の雪山童子の因縁を覧て、頓に無常幻化を悟り、半偈を求めて軀を雪山に投げた童子の如く、道のために身命を惜しまざるの決意を堅めた。慶長五年關ケ原陣が起り、七十騎は本多佐渡守の陣に加つて戰ひ、正三もまたこれに從つたが、陣中忠義に死せんと捨身の鍛鍊をし、佛道の所謂、勇猛精進において、契得するところがあつたと云う。
戦後、暇隙(かげき)を得るに曁(およ)んでひたむきに佛門を慕ひ、下妻多寶院良尊に見(まみ)え、又宇都宮慧林寺(けいりんじ)物外を訪れ、或は關本(せきもと)最乗寺に籠って僧と交わった。物外の會下には臨済禅の宗匠たる大愚、愚堂、明關(めいかん)が居たが、何れも同参であつたものゝ如くである。
慶長十九年大坂陣が起り、正三は本多出雲守に列して出陣し、終つて岡崎城に於て軍功により新領地を賜り、越えて元和元年の再度の大坂陣には徳川秀忠の先陣をつとめて大坂に至つた。時に三十七歳であつた。
後に江戸に下り、駿河台に住止し、起(貴)雲寺萬安を訪(おとな)うて洞上の宗風、百戸の惑を理會した。萬安は興聖寺の中興開山となった洞門の大徳で、臨濟の愚堂、大愚と道交があり、共に道譽(どうよ)の高かつた人である。正三は出家、得道、嗣法という順序を踏まないで、この萬安の感化を強く受けたまゝ、法としては曹洞禪の宗風(しゅうふう)をかれより嗣(つ)ぐことになつた。(併し驢鞍橋に現れたところから見ると、正三禪には頗(すこぶ)る獨得の宗風がある。必ずしも彼を洞濟の何れかに屬させなければならぬと云ふことはない。これは別に述べることにする。)萬安の下を辭してからは八王子の山奥に入つて坐禪をして、鳩(あつま)る者のために錄語を講じたりした。
元和五年(正三、四十一歳)、高木主水正に従つて大坂城に仕え、この年同期のために〔盲安杖〕を書いた。この書は禪の境地に立つて武士の武士たる心構へを説いたもので、正三最初の著作である。
翌年にはまた江戸に還つたが、遂に家を猶子(ゆうし、甥)に譲り出家遁世をした。時に四十二歳であつた。一日出家の名を大愚に乞うたところ、大愚は
『公は道價既に重い、誰か名を安ぜよう、萑(下に曰)名で可であらう』と云つたといふことである。大愚と正三との關係は詳(つまび)らかでないが、驢鞍橋下巻末に『南泉寺大愚和尚の渡にも寮舎を構へて久しく居り給ふ』と見立てゐるから、大愚は物外下の同参であつても、正三の尊崇する宗匠の一人であつたと思はれる。
同七年、名宿を敲(たた)いて五幾に廻歩し、神社佛塔を拝し、八年には豊の雪窓、高野の玄俊と相携えて法隆寺に投じて律を綜べ、経を学び、玄俊より沙彌戒を稟(う)け、一寒暑を経てついで三河の千鳥山に入つて凝念工夫した。台嚴、本秀の二人がその時、師の道に歸(帰)して晨夕参叩(しんゆうさんこう)した。寛永元年、石平山の幽谷に居を定めて結廬(けつろ)するに諸方の雲衲、遠近の男女靡然(ひぜん)として従った。妙心寺の雲居もこの廬(いおり)を訪ねたと云はれる。同八年、京都に上つたが、眞迢(しんちょう)と云ふ台宗の法師は、師に見(まみ)えて『石平是正悟之活人、末法時中得逢叵値』(石平行業記)と歎じた。この年、大坂より紀州熊野に詣り、遠祖の故地を尋ねたが、廻って和歌山に至り、其處の加納氏の諸士のために道を説き、武士日用を著した。武士日用に『農人日用』『職人日用』『商人日用』の三章を續けて著し、合して四民日用と云つた。今日、正三の著として萬民徳用一巻があるが、この四民徳用に『修行之念願』、『三寶之徳用』を加へたものである。
翌九年、石平山に新に佛殿を創め、寺を恩眞寺と稱した。中央に観音大士、左右に徳川家康及び秀忠の碑を安置した。正三は徳川家の恩顧を謝すること極めて篤かった。
正三は石平山恩眞寺の後來住持たるべき資格を次の如くに規定してゐる。
『恩眞住僧後來莫道心之士、則俾無知之行者衛燈香。硬不得令世間之長老住位』と(石平行業記)。
正三の著作のうちには、當時の佛教界に對する革新的意見が屡〃述べられてゐるが、道心なき長老をして恩眞の後席を嗣がしめるといふことは、正三の最も排するところであったのである。
其後、正三の足跡は大和の吉野、近江の山澤にも及び、丹後の瑞巌寺に至つては萬安の請に随つて〔麓草分〕二巻を著し、轉じて江戸に下つては尼女を度して〔二人比丘尼〕一巻、〔念仏雙紙〕二巻を著した。それから數年を經て寛永十六年八月二十八日、偶〃石平山にあつたが、暁に廓然として開悟するところが有つたといふ。時に六十一歳であつた。
同十九年(正三、六十四歳)、弟重成は肥後天草に吏(り)として轉出したが、正三は悟處(ごしょ)に坐在するを欲せず、弟に随つて自ら天草に赴き、邪宗泛濫(はんらん)の地に佛宇を建立して正法の弘通を圖(はか)つた。重成は正三のために幕府に訴へて建立に要する三百輌斛(りょうこく)を賜り、三十二宇を建て、うち一宇は浄土宗として家康、秀忠の牌(はい)を安じ餘りは曹洞宗となした。正三は〈破幾利支丹〉一巻を書して寺毎に置き、邪教の永斷を誓願した。
駐錫(ちゅうしゃく)三年、ついで長崎を經て還り、慶安元年には江戸に抵つた。教禪の學者、老幼貴賤擧げて歸仰した。天徳寺長水、賢宗寺萬休、海安寺呑海・春嶺等は糀町に舎を締んで剋定し、師を講じて垂語を願つた。
同三年、森田氏は、菴(あん)を四ツ谷に建てて、師を迎へたが、正三は此處(ここ)於て〔三寶徳用〕一巻を著した。同五年、熊谷氏はまた牛込の天徳寺境内に了心菴を建て、師を聘(へい)したが、此處にあつては〔修行之念願〕一巻を書いた。〔三寶徳用〕、〔修行之念願〕は前に記した〔四民徳用〕に合巻されて萬民徳用一巻をなすものである。〔修行之念願〕は正三最後の述作である。師は恒に昏沈の坐禪、無事の工夫を斥(しりぞ)けて世法卽(そく)佛法と云ふべき、活動的で社會的な禪を主張した。なほ正三禪の特色ある性格につきては、後に少しく述べることにする。
かくて慶安元年(正三、七十歳)、江戸に至つてより凡(おおよ)そ七年、明暦元年(西、1655)春に病を發し、その六月二十五日申刻、恬然(てんぜん)として駿河台の弟重成の宅に於て、法臘(ほうろう)三十六年、七十七歳の生涯を閉ぢた。末後兩三日前に一僧あつて尚法要を示し給へといふに、師ははたと睨んで、『何と云ふぞ、我三十年云ふことをえうけずして、左様のことを云ふか。正三は死ぬよ也』(驢鞍橋下巻)、と云つたといふ。如何にも武人正三らしい最後の句である。
その寂日の夜、全身を了心菴に遷し、龕(がん)を天徳寺に送り、翌日闍維(じゃい)し、天徳の北崗に塔した。後、塔は下總吉倉松山に遷した。門人五十餘員があり、不三は衆中の長老で、師の在世中に稲田觀音院に住し、雲歩は師の滅後に豊後能仁寺、肥後天福寺を闢(ひら)き、惠中は大府の草菴に居した。惠中は〔驢鞍橋〕の筆録者であり、〔石平行業記〕の著者でもあり、このほか禪と念佛に關(かん)する著作に、〔末法成佛結斷章〕一巻があり、正三禪を祖述した〔草菴雑記〕三巻がある。
正三の著書は上記の外に〔因果物語〕がある。これは何時書いたものかわからぬが、惠中の記すところでは、『人の靈化物語を作す毎に加様のことを聞捨にするは無道心のこと也。末世の者加様のことを證據(しょうこ)と作して進まずして、何を以て進んやと云つて集め給也。殊(こと)に曰(い)はく、我集むる所は〔元亮釋書〕、〔砂石集〕の物語よりも證據正しと也と』。〔因果物語〕は幽靈話の一種であると云つてよからう。(243頁)(一、略傳おわり)
三、正三禪の特色
正三道人の禪は日本禪思想史上特異の色彩を放つものである。傳統思想に終始するものは、正三禪を異端視するかも知れぬ。又はこれを輕視して顧みないで居ようとするでもあらう。が、苟(いやしく)も一心の誠を竭(つく)して人生の大問題を解決せんと努力した人は、如何なる系統又は無系統の人であつても、その言ふ所、その經驗したところに對してして、耳を傾けるが、眞摯(しんし)な學人の爲すべきところであらう。
正三禪には幾多の特處がある。彼は誰の禪を繼承したとは云つて居ない。多くの禪匠に参じたことはあつたが、誰に對して殊に心を傾けて修禪したとは云つて居ない。彼は自分の問題の解決に忙はしくして、あの公案はわかる、この公案はわからないなどと、看話禪者のやうに公案に捉へられぬ。彼は自分の求むるところは何處(いずこ)に在るかを知つて居た。『各々は佛法好也。我は佛法を知らず。只死なぬ身となること一つを勤むるばかり也』と(驢鞍橋下、12)、彼は云ふ、又『只牙咬(はがみ)をして死ぬこと一つを窮(きわ)むること也』(同上)とも云ふ。正三禪は日日の生活の上で『死習(しになら)う』ことを體得するところに在つたのである。これが彼の修行であつた。〈驢鞍橋〉の至るところで彼は死に言及して居る。『我は死がいやなに因(よ)つて、生通(いきどお)にして死ぬ身となりたさに修行はする也』(上、81)との聲明は、正三の修禪の全部であつた。
それで、彼は此點から見て、古今の祖師達を品騭(ひんしつ)せんとする。彼は見解とか法語とか語録とか云ふものに對しては、餘り重きをおかなかった。曰はく『古(いにしえ)の祖師達のも修行熟せるは少しと見えたり。大かた小見解を是とし、經文語録を以て法語を書き、教化などして、語録等を残されたると思ふ也。云云。』(上、34)。
彼は明かに學禪の目標を自覺して得たので、所謂(いわゆる)、お悟りなるもの、又そのお悟りを特種の熟語で表現すつことには、大して關心を持たなかった。『昔も實に隙の明(あひ)たるは釋迦御一人なるべし、其外の祖師、殊に我朝の傳教、弘法、まだ佛境界には遙なるべし』(下、107)。『道元和尚などを隙の明(あい)た人のやうにこそ思はるらん。未だ境界にあらず。その自由になるものにあらず』(下、121)。『隙の明た』と云ふは正三が屡々(しばしば)用ゐる文字である。生死を超越して而(し)かも生死に生きて居る境界を實地に獲得したのを、隙があいたと云ふのである。正三も此點においては十分の自信が持てなかつたやうだが、それでも『今日まで存命(ながらへ)て修行も大略には仕上(しのぼ)せたれ』(下、13)と云つて居る。そうかと思ふと『此年まで如是されども隙得明(えあか)ぬ故に』とも云ふ。又『我も八十まで生きたれど、何の變もなし。乍去(さりながら)我は慥(たし)かに種は取た也』(下、107)とも云ふ。『種を取る』とは、『隙のあく』方向を間違へては居ないと云ふことらしい。卽ち正三は自ら佛境界を得たとは云はぬが、その方に近づきつゝある、その鍵は握って居ると云ふのであらう。
正三は普化(ふけ)の境涯を理想としたものの如くに見える。『普化の意、道ならば三町ばかり行くほどが間、慥(たし)かの移れり。是は大ひに徳になる也。我も普化ほどには世世生生において修しつけんと思ふ心強ふ起れり。普化は慥(たし)かに佛境界の人と覺えたり』と(下、13)、彼は云ふのである。又下巻の五十七及八十九にも普化に言及して、彼の境界を『中中さつさつとしたる活境界』だと云ひ、又『普化の境界が乗りたので、修行ようたらぬと云ふことを知る』とも云つて居る。
普化は、人々の知って居るやうに、臨濟録中に現はれる人物で臨濟と同時代である。臨濟の教化を助けたと云ふが、其行動は如何にも飄飄乎として風の如く捕捉すべからざる底のものがある。彼の眼中には臨濟の如きものはほとんど無かつたと云はれ得る。彼は正三の考へる如く物だの肉體だのと云ふ『實』に因へられぬ『隙の明いた』自由自在の人であった。方の外に遊んで居る人であつた。寒山、拾得を想はせる人であつた。『度人も何も有るやうの機にあらず』と(下、85)、正三は云つて居る。
正三はこのやうに、日用光裡に實際の境地を手に入るることを修行の目的として居たので、『見解などと云ふことも指して用に立たぬもの也』(下、5)として、見解卽ち思想に對しては、さして重きを置かなかった。見解は又悟りである。『悟る悟りはあぶないことぞ。我も悟らぬ悟がすきなり。法然などの念佛往生も悟らぬ悟也』(同上)と、正三は斷ずる。
見解はまた見性である。此見性を看話禪(かんなぜん)の對象として居るが、正三は見性に止まりてこの圏繪(けんかい)の外に出ることを知らぬのを嫌忌する。『見性の分ありてもなほなほ強く修することなり。まかなか隙の明くことにあらず。然るに今時は少見解あれば早や修行成就と思ひ、師家を立て、亦(また)人を印可する也。すべて大ひに差へり』と(下、16)、彼は云ふ。見解、悟人、見性など云ふ一次性のものに止まりて、これを常住に使ひこなさない限り、そんなものは大して役に立たぬのであるが、看話禪の學者は概して比弊に陥るのである。正三の警告は肯綮(こうけい)に中(かな)つて居る。『さてまた悟入すれば佛境界なりと思へり。そでもない事也。たとひ見解ありとも、自由に使ふるべからず。佛境界と云ふは格別の事也』と(上、七十七)。實にその通りである。
畢竟のところを云へば、見解は修行と相應すべきもので、修行のない見解、卽ち境界から出ない見解は、鬼の空念佛である。が、人間の意識はこの空念佛の方向に進むやうに出来て居る。それがその長處で又短處である。正三は徹底してその短處を切り捨てんとするのである。『我ヲツキリの中にも言ひ習うて道理の上手は多きなり。然れども修行するものは一人もなし。我此前石の平にて少し沙汰しければ、皆理屈佛法になるによつて、飽き果て、ふつと理を沙汰せず。ちょつとよりから一向に修し行ずる事ばかりを授(さずけ)るなり』(上、47)と云ふ正三の心持ちはよくわかる。
併し只修行すると云ふことはない。修行と云ふとき既に修して行ずべき何かがそこにあるのである。『修行』に先行して何かの見解、思想、悟りなどと云ふものがなくてはならなぬ。正三の斥(しりぞ)くるところは、見解を見解として、『それが何の用にも立ぬもの也』の位地に止まる時なのである。業障を盡くすと云ふも修行の義である。(上、45)。人間としては何かの意味で思想がなくてはならぬ。『理を沙汰せず』にはすまされぬのである。思想だけあつても、人間には濟度の機會が與へられて居る。『畜生の如くにして冥より冥に落ち入り』ることはない(上、100)。何となれば、この思想の故に修行も可能になり、業障をも盡くし能ふのである。正三も此間の消息を知らぬことはない。それで彼は『意の暗き行者』を誡(いまし)めて曰はく『其方はまず言句を錬り鍛うて意に徹すべし(中略)。なかなか意暗くしては修行はかどるべからず。」まづ其方は専(もっぱ)ら意を受け習はるべし』(上、102)と。意と云ふは思想であり、見解である、言句に現はし得べきところのものである。只無暗(むやみ)に修行すると云ふことはあり得べからざることである。正三も普化の境界において、その意を得たものであつたので、七十七歳をつくし得たのである。
正三禪に今一つの特有なるものは、念佛である。元明時代における念佛禪でもなく、浄土系を引いた念佛でもない、また白隠和尚が比較して居る念佛と云ふときの念佛でもない。正三獨自のもので、異數の念佛である。
『初心のものに悟を安く授け、暫時に隙を明さすこと大罪也。今時世間に比類多し、恐るべきことなり。我は浄土宗のやうに念佛を申し習はする位ひがすき也。其故に初心の者には先(まず)所作を授る也』
『浄土宗のやうに』と云ふが、正三のはその實そんな念佛でない。『念佛を申し佛に成んと思ふは輪廻の業也』と(上、87)云ふのであるから、彼の念佛は後世を願ふためではなくて、安楽に死ぬるためである。『然間、萬事を放下して南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛と息を引切り引切り常に死に習ひて安楽に死ぬる外なし』(同上)と云ふやうな念佛は、何の望をも持たぬ念佛、只死に習ふ念佛である。これを『只土(ただつち)になりて念佛修行する』とも云ひ(上、57)、又『虚空一枚になる』とも云ふのである(同上)。それは念佛の中に全存在を叩き込むので、一念の妄想もなく、生死の自覺もなく、我他彼此の相對感もなく、一心不亂に念佛そのものとなる、これが念佛で死に習ふのである。生死の業を申し盡くすことである。正三は何時も『死習(しになら)つて、死の隙を明る事』(上、42)を修禪の眼目とした、此に正三禪の特異性がある。
とに角、正三禪の始終を通じて強く現はれて居る思想は『此(この)糞袋を何とも思はず打捨つること也。これを仕習ふより別の佛法を知らず』と(上、13)云ふのである。『なにもなき坿(がけ)の下へたゞ落ちて死んで見るに中中張合無(なく)して飛れざる也』(同上)と云ふところに正三の面目を窺ふことが出来る。闇から突き出す鎗(やり)先に引つかかつて莞爾(かんじ)として死んで行けるやうにと、彼は修行した。これは只出来ることでなく、又俗の云ふ『犬死』とか、『死を何とも思はぬ』とか云ふ死に方ではなくて、正三の『死習ひ』には深い死生観があり、宗教的安心があり、哲學的直感がある。彼はこれを文字の上、思想の上に現はして解明することをしなかつた。僅かに普化の境界にその意を得たものと云つて居るに過ぎないのである。
正三禪は日本における禪思想史上大いに異彩を放つものと云はなくてはならぬ。なほ詳細は他日を期する。(237~254頁)
2023年6月28日了
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『正法眼蔵随聞記』懐奘編 和辻哲郎校訂 岩波文庫
改版に際して
中村元
1『正法眼蔵随聞記』の成立
この『正法眼蔵随聞記』という書は、わが国の生んだ偉大な宗教家・思想家である道元禅師の思想を知るのに最も適切な入門書であり、またその人物像を、あざやかに、くっきりと伝えてくれる。
道元(1200-53)は、日本における曹洞宗の開祖であり、宋から帰国してのち、京都のあたりで旧仏教から迫害を受けたが、のちに越前(福井県)に隠棲(いんせい)し、永平寺を開創した。
かれの弟子、孤雲懐奘(こうんえじょう)(1196-1280)は師に忠実に随従していたが、師が折に触れて説示した教えをみずから書き残して一書となったのが、この『随聞記』である。道元の主著が『正法眼蔵』九十五巻であるのに対して、この聞き書きのほうを『正法眼蔵随聞記』(六巻)というのである。
この書の素材はもともと懐奘がメモとして書き記しておいたのであるが、のちに懐奘の弟子たちがそのメモを整理編纂してまとめて一書とし、〈懐奘編〉ということにしたと考えられる。
おそらく今の形にまとまったのは鎌倉末葉であったらしい。この書はそののち永く筆写によって伝えられたので、広く知られることはなかった。ところが宝暦八年(1758)に面山瑞芳(めんざんずいほう)(1683-1769)が序を書き、明和七年(1770)に印刻出版してから、広く読まれるようになった。この板本を明和本というが、一般には「面山本」という名で知られている。〔これは、一般に『随聞記』書誌研究者の記すところであるが、わたくしの所持している一本は「大本山永平寺蔵版」と扉に刻せられ明和己丑(明和六年)の面山の跋語、同年の洲菴僧参の跋がついていて、貝葉書院から明治以後に刊行されているが、木版で印刷された年次は不明である。〕
ただし面山以前にも印刻は行われていた。この書は、慶安四年(1651)はじめて板本(はんぽん)として刊行され、寛文九年・十年(1669・70)の二回にわたり、板木を改めて刊行されているが、その時にはまだ序も跋もなく、だれの書だともわからないが、内容がすぐれているから刊行されたと言われていた。この書が孤雲懐奘の筆録になるということがはっきりしたのは、面山瑞芳の刊本(かんぽん)によってである。
面山は古い写本をもとにして校訂出版したが、みずからの序と、その次に凡例(はんれい)を付している〔ただしこの岩波文庫本では「凡例」「序」の順とした〕。その序によると、この古写本のあることを、面山は若い時から聞いていて、それを見たいと思って探し求めていたが、ついに加賀金沢の大乗寺において発見し、それから晩年の十余年を費して校訂出版したのだという。
面山の功績が大きかったために、他の写本や板本は隠れてしまった趣きがあるが、昭和十七年、大久保道舟博士により、愛知県長円寺において、寛永二十一年(1644)写であるが、廉暦二年(1380)の古写本をもとにした『随聞記』が発見された。この写本は、われわれに『随聞記』の古体を知らせてくれる。一見意味の取りにくい語句や文の続き具合をそのままに写してあるから、書写しては特に恣意を加えなかったという態度が推測される(これを「長円寺本」とよぶ)。〔面山本と長円寺本との比較については、大久保道舟校訂『道元禅師全集』収録の「正法眼蔵随聞記」参照。筑摩書房刊、昭和44-45〕
この長円寺本は、水野弥穂子氏によって『日本古典文学体系』81(岩波書店、昭和40年)に精密に校訂出版され、詳細な注釈が付記されている。〔特に、その註記は、専門家にとっても、一般読者にとっても、非常に助けになる。〕(149~151頁)
2 岩波文庫本の由来
道元が単にわが国の曹洞宗の開祖としてではなく、わが国の生んだ偉大な思想家として一般に知られるようになったのは、和辻哲郎博士の力によるところが大きく、そうして道元の人物像がくっきりと浮かび上がって来たのは、この『正法眼蔵随聞記』の岩波文庫本による点が多い。
和辻先生は、道元の思想および人格にひかれて、「沙門道元」という論文を、大正九年から十二年にわたってまとめ、その初めの部分すなわち約三分の二を雑誌『新小説』に連載し、残りを当時創刊された『思想』誌に掲載されたのである。それが発表直後にどれだけの影響をおよばしたか、よくは解らないが、この論文がやがて『日本精神史研究』(岩波書店、大正十五年十月刊行)のうちにおさめられて刊行されるとともに、道元という思想家・宗教家が一般に非常に注目されるようになった。
その一例として、わたくし自身の経験を述べることを許して頂きたい。わたくしは東京高等師範学校附属中学校に、大正十四年に入学したが、級担任で修身の先生であった原房孝先生が、修身の時間に道元の事蹟を感激を以て伝えられたことを覚えている。それは、求道者たるも、ひいてはの勉強を志す者はこれだけの覚悟が要るということを強調されたのである。わたくしが後年研究者になってから知ったことであるが、原先生の講話の内容は、大体「沙門道元」の中に出ていることがらであり、さらに遡れば、『正法眼蔵随聞記』の中に出てくることがらであった。
岩波文庫本の『正法眼蔵随聞記』が刊行されたのは、昭和四年である。道元に対するブームが漸(ようや)く起ったので、やがて原典を刊行するという運びになったのであろう。世間でこの文庫本は非常に歓迎され、昭和十三年よりも以前に十一刷を刊行していた。
道元自身の著作である『正法眼蔵』にくらべれば、この『随聞記』のほうは、はるかに内容が読み易いが、しかし当時でも一般の人々には近づき難いものであったらしい。そこでこれに振り仮名をつけようという提議がなされ、わたくしがそれを為すように、和辻先生から仰せつかった。
大変勉強になる良い機会であったが、わたくしには、なかなか重荷であった。一般の仏教辞典や禅学辞典にも出て来ない語が沢山に見受けられる。そこで旧幕時代からよく読まれた『随聞記』(京都、貝葉書院刊)および『永平正宗訓』(同じく、貝葉書院刊)に出て来る若干の振り仮名を片はしから検討した。しかしそれらの振り仮名はごく僅かであり、部分的であった。当時はまだ『随聞記』全体についての振り仮名つきの板本は公刊されていなかった。
そこで個々の読みくせを知るためには、特に『正法眼蔵』の振り仮名つき出版に当らねばならぬ、と考えて、当時曹洞宗聖典として振り仮名のつけられていた出版(例えば東方書院版、あるいは来馬琢道師編のもの〔無我山房刊、明治四十四年〕)などをいろいろ参照した。それでもはっきりしないところは、のちに永平寺西堂となられた橋本恵光老師や永平寺東京別院副監院の成河仙嶽老師に教えて頂いた。そのほか宇井伯寿先生にもなにかと御教示にあずかったことを覚えている。
そのように諸先輩の一方ならぬお世話に与(あずか)ったにもかかわらず、ここに付した振り仮名でよいかどうか、なお確信をもっていない点がある。例えば、「道」という字が一字だけ出て来るときに、来馬琢道師編の聖典には「どう」と振り仮名がつけてあるが、橋本恵光老師は、提唱のときに、つねに「みち」と読んでおられた。そうして老師に個人的に伺ったところが、ただ「「みち」と読むほうが良い」と言われたが、その理由については、別に何もいわれなかった。
ともかくこういう道筋をたどって、昭和十三年四月二十五日に振り仮名つきの第十二刷が刊行された。その後もつづけて印刷されていた。
ところで一九八一年に、この文章の紙型が摩滅してしまったので、新たに組み直すに当って、従前どおり面山本によるべきか、新たに長円寺本によるべきか、ということが問題となった。
『随聞記』の原形を明らかにするためには、文献学的には長円寺本を重んずるべきであろう。しかし現在の岩波文庫本としては、やはり面山本を刊行することにした。そのわけは、
ー後略ー(155~156頁)
3『随聞記』のひきつけるもの
『正法眼蔵随聞記』が今日なお愛読されているのは、何故であるか。それは、この書を通して、道元その人がわれわれに迫って来るからである。
この書にひきつけられた和辻哲郎先生の感激を、逐次紹介し、若干の付言を加えたいと思う。
『随聞記』がわれわれに訴えるのは、そこにたぎっている精神的気魄である。精舎とか寺院というような外面的なものではなくて、その内に具現されている精神である。その精神的な気魄、心構えを、道元は、入宋(にっそう)以前に師の栄西から受けていたらしい。
ある時、建仁寺の僧たちが師栄西に向かって言った。「今の建仁寺の寺屋敷は鴨河原に近い。いつかは水難に逢うでありましょう。」栄西は答えた。「自分の寺がいつかは亡び失せる――そんなことを考える必要はない。インドの祇園精舎は礎(いしずえ)をとどめているに過ぎぬ。重大なのは寺院によって行なう真理体現の努力である。」(『日本精神史研究』、「和辻哲郎全集」第四巻166ページ)
『随聞記』は平易な談話を記したものにすぎないが、そのうちには、われわれが避けて通ることのできない〈価値の相剋〉の問題に迫っている。ぎりぎりの状況において、人は、宗教の象徴、宗教の文化的所産をとるか? あるいは、人間の生命をとるか? ――選択に迫られることがある。
『随聞記』の内含しているこの深刻な問題の事例を、和辻博士は次のように紹介しておられる。
ある時一人の貧人が建仁寺に来て言うには、「私ども夫婦と子供は、もはや数日の間絶食しております。餓死するほかはありませぬ。慈悲をもってお救いくだされたい。」栄西は物を与えようとしたが、おりあしく房中に衣食財物がなかった。で彼は、薬師の像の光の料に使うべき銅棒を取って、打ち折り束ねまるめて貧人に与えた。「これで食物を買うがよい。」貧人は喜んで去った。しかし弟子たちは承知しなかった。「あれは仏像の光だ。仏の物を私するのは怪しからぬ。」栄西は答えて言った。「まことにその通りである。が、仏は自分の身肉手足を割(さ)いて衆生に施した。この仏の心を思えば、現に餓死すべき衆生には仏の全体を与えてもよかろう。自分はこの罪によって地獄に落ちようとも、この事をあえてするのだ。」
またある時、貧乏な建仁寺では、寺中絶食したことがあった。その時一人の檀那が栄西を請じて絹一疋を施した。栄西は歓喜のあまり人にも持たしめず、自ら懐中して寺に帰り、知事に与えて言った、「さあこれが明日の朝の粥だ。」ところへある俗人の所から、困る事があるについて絹を少し頂きたいと頼んで来た。栄西は先刻の絹を取り返してその俗人に与え、あとで不思議がっている弟子たちに言った、「おのおのは変な事をすると思うだろうが、我々僧侶は仏道を志して集まっているのだ。一日絶食して餓死したところで苦しいはずはない。世間的に生きている人の苦しみを助けてやる方が、意味は深い。」(正法眼蔵随聞記)(『日本精神史研究』、全集本167ページ)
宗教の文化的所産よりも、人間の生命のほうが尊い、そうして人間の生命を救うためには、仏道修行者は、みずから死ぬ覚悟が必要であると言う。まことに、厳しい態度である。
死ぬ覚悟で修行するならば、恩愛は、これを断たねばならぬ。
栄西の死後に道元は、建仁寺の明全に就いたが、明全の人格について、次のように伝えている。
先師全和尚入宋(にっそう)を企てた時に、その師叡山の明融阿闍梨が重病で死に瀕(ひん)した。その時明融が言うには、「自分は老病で死ぬのも遠くない。しばらく入宋をのばして自分の老病を扶(たす)け、冥福を弔ってほしい。入宋は自分の死後でも遅くはあるまい。」明全は弟子法類等を集めて評議した。「自分は幼少の時両親の家を出てから、この師の養育をうけて、このように成長した。この養育の恩は実に重い。のみならず、仏法の道理を知って、幾分の名誉を得、今入宋求法(ぐほう)の志を起こしたのも、皆この師の恩でないものはない。しかるに今師は老病の床について、余命いくばくもない。再会期し難きを思えば、入宋を留(とど)め給う師の命もそむき難い。しかし今身命を顧みず入宋求法するのは、慈悲によって衆生を救い得んためである。このために師の命にそむいて宋土に行くことは、道理あることではなかろうか。おのおのの考えをききたい。」人々は皆答えた。「今年の入宋(にっそう)はお留まりなさるがよい。師の死期はもうきまっている。今一年や半年入宋が遅れたとて何の妨げがあろう。来年入宋なされば師の命にそむかず入宋の本意も遂げられる。」この時道元も末臘にあって言った。「仏法の悟りが今はこれでよいと思われるならば、お留まりになる方がよい。」明全は答えた。「さよう、仏法の修行はこれほどでよかろう。始終このようであれば、出離得道するだろうと思う。」道元は言った、「それならばお留まりなさるがよい。」そこで評議がおわって、明全は言った。「おのおのの評議、いずれも皆留まるべき道理のみである。が、自分の所存はそうではない。今度留まったところで、死ぬにきまった人ならば死んで行くであろう。また自分が看病したところで、苦痛が止むはずはない。また自分が臨終の際にすすめたからといって、師が生死を離れられるわけでもない。ただ師の心を慰めるだけである。これは出離得道のためには一切無用だと思う。むしろ自分の求法の志を妨げたために罪業の因縁となるかも知れない。しかしもし自分が入宋求法の志を遂げて、一分の悟りでも開いたならば、たとい一人の人の迷情に背いても、多くの人の得道の因縁となるであろう。この功徳がもしすぐれているならば、師への報恩にもなるわけである。たとい渡海の間に死して目的が達せられなくとも、求法の志をもって死ねば本望と言ってよい。玄奘三蔵の事蹟を考えてみよ。一人のために貴い時を空しく過ごすのは仏意にはかなうまい。だから今度の入宋の決意は翻(ひるがえ)すことができぬ。」かくて明全はついに宋に向かった。
道元はこの真実の道心に打たれた。後年彼がこの話をした時、弟子懐奘は問うていう、「自らの修行のみを思うて老病に苦しむ師を扶(たす)けないのは、菩薩の行に背きはしないか。」道元は答えた、「利他の行も自他の行も、ただ劣なる方を捨てて勝なる方を取るならば、大士の善行(ぜんこう)になるであろう。今生(こんじょう)の暫時の妄愛は道のためには捨ててよい。」(随聞記第五)(全集本169-171ページ)
道元の修行のきびしさは、入宋時の師であった天童禅院における如浄の鍛錬のきびしさから受けたものであるらしい。道元は、次のように述懐している。
如浄は、夜は二更の三点まで坐禅し、暁には四更の二点より起きて坐禅する。弟子たちもこの長老とともに僧堂の内に坐するのである。彼は一夜もこれをゆるがせにしたことがない。その間に衆僧は多く眠りに陥る。長老は巡り行いて、睡眠する僧をばあるいは拳(こぶし)をもって打ちあるいは履(はきもの)をぬいで打つ。なお眠る時には照堂に行いて鐘を打ち、行者を呼び、蝋燭をともしなどする。そうして卒時に普説していう、「僧堂の内で眠って何になる。眠るくらいならなぜ出家して禅堂に入ったのだ。世間の民衆は労働に苦しんでいる。何人も安楽に世を過ごしているのではない。その世間を逃れて禅堂に入り、居眠りをして何になる。生死事大、無常迅速と言われている。片時も油断はならない。それを居眠りをするとは何たるたわけだ。だから真理の世界が衰えるのだ。」ある時近仕の侍者たちが長老に言った、「僧堂裡の衆僧、眠り疲れて、あるいは病にかかり退心も起こるかも知れぬ。これは坐禅の時間が長いからであろう。時間を短くしてはどうか。」長老はひどく怒って言った、「それはいけない。道心のないものは、片時の間僧堂に居ても眠るだろう。道心あり修行の志あるものは、長ければ長いほど一層喜んで修行するはずだ。自分が若かった時ある長老が言った、以前は眠る僧をば拳が欠けるかと思うほどに打ったが、今は年をとって力がなくなり、強くも打てぬ。だからいい僧が出て来ない、と。その通りだ。」
が、如浄の鍛錬は、坐禅が真理への道であることの確信に基づくのである。従って彼の呵嘖(かさく)は彼の慈悲であった。道元はこのことについて言っている、――浄和尚は僧堂において眠る僧を峻烈に呵嘖したが、しかし衆僧は打たれることを喜び、讃嘆したものである。ある時上堂のついでに浄和尚のいうには、「自分はもう年老いた。今は衆を辞し、菴に住して、老いを養っていたい。が、自分は衆の知識として、おのおのの迷いを破り、道を授けんがために、住持人となっている。そのために呵嘖し打擲(ちゅうちゃく)する。自分はこの行を恐ろしく思う。しかしこれは仏に代わって衆を化する方式である。諸兄弟、慈悲をもってこの行を許してもらいたい。」これを聞いて衆僧は皆涙を流した。(同上第1)(全集本173-174ページ)
この覚悟は、僧侶でない一般教育家にも強い刺激を与えたものであった。わたしの中学時代の先生も、この話を強調しておられた。
道元の性格は純粋であり、竹を打ち割ったようなところがあった。かれは方便を用いるということを嫌った(『随聞記』第6、文庫本141ページ)。インド以来の仏教の伝統的な教化法を、一撃のもとに排斥しているのである。
真実の道心は、この世の栄誉だの階位的秩序を超えたものである。毀誉褒貶(きよほうへん)にとらわれず、評判を気にしないところに、仏道が実現する。道元は、次のような回顧を述べている、――
自分は最初無常によって少しく求道の心を起こし、ついに山門を辞してあまねく諸方を訪(とぶら)い道を修した。が、そのころには、建仁寺の正師にも逢わず、また善き友もなかったゆえに、迷って邪念を起こした。それにはそのころの教道の師の言葉も責めを負わねばならぬ。彼らは、先輩のごとく学問して天下に名高い人となれ、と教訓したのである。で、自分は弘法大師のように偉くなろうなどと考えていた。ところがその後高僧伝などを読んでみると、そういう心はいとうべきものとせられている。自分は考えた。明聞を思うにしても、当代の下劣の人によしと思われるよりは、上古の賢者、未来の善人を愧(は)じる方がよい。偉くなろうと思うにしても、わが国の誰のようにと思うよりは、シナ、インドの高僧のようにと思うがよい。あるいは仏菩薩のように偉くなろうとこそ思うべきである。こう気づいてからは大師などは土瓦のように思われ、心持ちが全然変わった。(随聞記第4)(全集本172ページ)
道元にそういう気持を起させたということは、かれが宋の禅院において、世俗の快適な生活を弊履(へいり)のごとくに捨て去っていた修行僧たちを実際に見たからである。かれは述懐して言う、――
大宗国の叢林には、末代といえども、学道の人千人万人を数える。その中には遠国の者も郷士の者もあるが、大抵は貧人である。しかし決して貧を憂えない。ただ悟道のいまだしきことをのみ憂え、あるいは楼上にあるいは閣下に、父母の喪中ででもあるかのごとくして、坐禅をしている。自分が目のあたり見た事であるが、ある西川の僧は遠方よりの旅のために所持の物をことごとく使い果たして、ただ墨二三丁のみを持っていた。彼はそれをもって下等な弱い唐紙を買い、それを衣服に作って着た。起居のたびごとに紙の破れる音がする。しかし彼は意としなかった。ある人が見かねて、郷里に帰り道具装束を整えてくるがいい、とすすめると、彼は答えていう、「郷里は遠方だ。途中に暇をかけて学道の時を失うのが惜しい。」こうして彼は寒さにも恐れず道を学んだ。こういう緊張した気分のゆえに、大国にはよき人が出るのである。(同上第6)同様にまた彼はいう、――大宗国によき僧として知られた人は皆貧窮人である。衣服もやぶれ、諸縁も乏しい。天童山の書記道如上座は官人宰相の子であったが、親類を離れ、世利を捨てたために、衣服のごときは目もあてられなかった。自分はある時如上座に問うて言った。「和尚は官人の子息、富貴の種族だ。どうして身のまわりの物が皆下品で貧窮なのか。」如上座は答えて言った、「僧となったからだ。」(同上第5)(全集本174~175ページ)
こういう人が実際にいるということを知ったのは、大きな感激であったであろう。
何故こういう態度がとれるのか? それはあらゆるものが無常であるからである。一切の物はやがて失われて滅びてしまう、と観ずるならば、世間的な欲得に心を奪われることもなくなってしまうであろう。かれの言うところを和辻博士が解釈されたところによると、
世間の無情は思索の問題ではない、現前の事実である。朝に生まれたものが夕に死ぬ。昨日見た人が今日はない。我々自身も今夜重病にかかりあるいは盗賊に殺されるかもわからない。もしこの生命(いのち)が我々の有する唯一の価値であるならば、我々の存在は価値なきに等しい。(随聞記第2)(全集本183~184ページ)
さとりは内から出て来るものであるが、修行は、修行者たちが互いに激励し助け合うことによって進んで行く。
懐奘を初めて首座に請(しょう)じた夜、道元は衆に向かって言った、―― 当寺初めて首座を請じて今日秉払(ひんぽつ)を行わせる。衆の少なきを憂うるなかれ。身の初心なるを顧みるなかれ。汾陽はわずかに六七人、薬山は十衆に充たなかった。しかし彼らは皆仏祖の道を行じたゆえに、叢林盛んであると言った。見よ、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむるものがある。竹に利鈍あり花に浅深があるのではない。またこの竹の響きを聞きこの花の色を見る者がすべて得悟するわけでもない。修行の功によって得悟の機に迫ったものが、これらを縁として悟るのである。学道の縁もそれに変わらない。真理はすべての人の内にある。しかしそれをつかむには衆を縁としなくてはならない。ゆえに衆人は心をひとつにして参究すべきである。練磨によって何人も器となる。非器なりと自ら卑下することなく、時を惜しんで切に学道に努めよ。云々。(随聞記第4)(全集本190ページ)
修行によって自己が空ぜられると、他人に対して心が開かれて来る。慈悲が具現されることになるのである。
これは、決して難しい、浮世離れした話ではない。凡人が凡人に対してつき合うときに、こだわりなく、さらりとした気持で対し得る気持をもたせてくれる。
わたくしたちも、世の中に生きていると、絶えず当面する問題であるが、道元はこういう点でも懇切丁寧に教えてくれる。
たとえば人が来て、他の人に物を乞うとか、あるいは訴訟するとかのために、手紙を書いてくれと頼むとする、この場合に、自分は世捨て人である。現世的な利を追うことに関与するのは柄ではない、と言って断わるとする。それは世捨て人の法にかなっているように見えるが、しかしもし他人の非難を思うて断わるのであるならば、それは我執名聞に動いているのである。頼む人に1分の利益をも与える事ならば、自己の明聞を捨てて頼まれてやるがいい。仏菩薩は人に請われれば身肉手足さえも裁った。この道元の言葉に対して、懐奘は問うていう、――まことにそうである。しかし人の所帯を奪おうとする悪意のある場合とか、あるいは人を傷つける場合などにも、助力していいかどうか。道元は答える、――双方いずれが正しいかは、自分の知ったことではない、ただ一通も状を乞われて与えるだけの話である。その際言うまでもなく正しい解決を望むと書くべきであって、自分が審くべきではないであろう。またたとい頼み手の方が正しくないと知っている場合でも、一応その望みをきいて、手紙には正しい解決への望みを披瀝しておけばよい。「一切に是なれば、かれもこれも遺恨あるべからざるなり。かくの如くのこと、人に対面をもし、出来(いできた)ることにつきて、よくよく思量すべきなり、所詮は事にふれて、名聞我執をを捨つべきなり。」(随聞記第1)(全集本201ページ)
浮き世に住んでいれば、人からいろいろと用事をたのまれるが、角を立てる必要はない。自分のエゴイズムに支配されず、他人からの評判を気にせず、相手のためになるように、また他の人々を傷けることのないように、こだわりの無い気持で対処して行けば良い、というわけなのであろう。ここには、道元の「温かい心」が感ぜられる・それは、かれが『正法眼蔵』で強調している「柔軟心」に通ずるものであろう。
文章を書くにしても気取って書く必要はない。学殖をを誇るのは、なおさらおぞましい。「近代の禅僧、頌(じゅ)を作くり法語を書かんがために文筆等をこのむ、是れ便(すなわ)ち非なり。頌につくらずとも心に思はんことを書出し、文筆とゝのはずとも法門をかくべきなり。」「思ふ儘の理を顆々(つぶつぶ)と書きたらんは、後来も文はわろしと思ふとも、理だにも聞ゑたらば道のためには大切なり。」(『随聞記』第2、8・11)(文庫本51-52、55ページ) 道元に、このように教えられると、文章を書くということが億劫でなくなる。
さらに国際化された現代社会においても、この心掛けは、ますます生きて来るであろう。外国文を書くということも、それほど気にしなくてもよいことではなかろうか。こどものころからお味噌汁と漬物で育って来たわれわれ日本人は、どうせバタ臭い文章はかけないにきまっている。道元のいうように、「思ふままの理を顆々(つぶつぶ)と書く」というので、良いのではなかろうか。
道元には「傘松道詠」と名づけられる幾多の和歌があり、かれは立派な詩人であった。しかし、その和歌には」技巧を凝らしたところは見受けられない。この『随聞記』のうちの立言にも認められるように、かれは、表面的には文芸の価値を認めていなかった。〈仏道を修行すること〉――それがかれの唯一の関心事であった。古来、世間で認めるようなもろもろの価値は、この究極者に従属していたのである。
同様の意味で、かれはただ学殖を誇るという態度を斥けている(『随聞記』第2、8)(文庫本、51-52ページ)。学問とは、いったい何のためにあるのであろうか? かれは究極的な問いを投げかけているのである。
『随聞記』は、仏教史研究のための重要な資料である。そrは当時の仏教界の実情を良く伝えているからである。また、思想史的にも重要である。当時の、中世の西ヨーロッパ、インド、シナなどの思想と対比してみると、あまりにも良く類比した特徴を示しているのに驚く。また国語史の上でも重要であろう。それは、当時の日本人のハナシコトバを筆録している点が認められるからである。
しかし、それにも増して、この『随聞記』は、歴史を超えた、不変の人間の真実をわれわれに伝えてくれる。それが、われわれの心を打つのである。(149~170頁)
2023年8月11日了
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