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相川養三君の思い出

投稿日:2025-02-13 更新日:

相川養三君の思い出

相川 ○○様

 ご主人の訃報のお知らせを昨日受け取りました。私は早生まれでまだですが相川君は傘寿(注;相川君は1月生まれだから79歳)になっていましたか。80年生きたといえ、長年連れ添ったご主人の死に、さぞやお悲しみのことと思います。。歳をとると時の流れの無常さを感じ、また、若き日のノスタルジーのドツボに入りそうになります。

 相川君は、小学校3年の時に、佐世保から私のいたクラスに転校してから、創文社に就職して、東京で再会し、私が北海道にいた頃は、札幌の借家に遊びにきたこともありました。長い付き合いで、その思い出を、私のフェイスブックにアップしようとおもいます。

アップし終わりましたら、私のサイト【岡野岬石の資料蔵】に保存し、プリントアウトして、そちらにお送りいたします。

2025年1月15日

岡野 浩二

『画中日記』2025.01.15【相川養三君の思い出】

 昨日、相川養三君の訃報の知らせのメールが野上氏から届いた。相川氏も野上氏も私の玉野での同級生で、二人共大学卒業後、東京に就職した。

 以前書いて、フェイスブックに投稿し、【岡野岬石の資料蔵】のサイトに保存してある『立石旻君の思い出』と同じく、『相川養三君の思い出』をすこしづつフェイスブックに投稿していこうとおもう。まず、手当たり次第、思いつくままにアップしていきます。

相川養三君の思い出-(1)2025-1-15

 僕が小学5年生の頃の話。岡山県の玉野市玉は市の基盤の三井造船所の工場があり、当時は三井の企業城下町といわれていた。工場の正門の前に三井造船所の運営する『児島荘』という海員クラブがあった。船が修理などのために造船所のドッグに入ってくると、乗組員は自宅に帰ったりするのだが、海員クラブというのは、責任者などがホテルのように泊まったりする施設だ。食事を出し、部屋を提供し、応接室もあり、まだテレビがめずらしい時代にテレビも置いてあり、ビリヤードや卓球などもできた。春休みや夏休みの時期などには都会から同じ年頃の子供を連れた母親も、父親に会いにきて泊っていく。そのクラブの管理と食事を依頼されていた人の息子が僕と同じクラスだったので、よく遊びに行った。クラブには、昼間はもちろんゲストはいないから、子供たちだけでビリヤードなどをして遊んだ。(自著『芸術の哲学』より173頁)

小5の春の遠足四国の屋島で、後列真ん中辺、白っぽい服装が相川君。私は前列左端、最近アップした玉小、玉中の動画に付けた校歌の音源データを送ってもらった岡本正徳君の右が立石旻君

中3の冬休みか中学卒業と高校入学の間か、小豆島を徒歩一周無銭旅行、左から相川君、私、立石君。

大学1年の夏休み、玉の港にて。右後ろが相川君。

相川養三君の思い出-(2)2025-1-16

 玉小3年の新学期に、相川君は母親と共に教室に来た。腺病質でおとなしいかんじの少年で玉での私の周囲には見かけないタイプだった。授業前に教室の後ろで、彼の母親が、彼の頭にできた腫れ物にペニシリン軟膏をつけながら、近藤先生に挨拶をしている。子供の身体(からだ)が弱いので、運動会や臨海学校には不参加、をお願いしていた。

 私は子供のときから、はしっこく、物見高かったので、三人の近くで興味深く見ていた。挨拶が終わると、近藤先生が私に、相川君は新しい学校に不慣れで友達もまだいないだろうから、岡野君が友達になってあげなさい、といわれた。

 先生に言われるまでもなく、玉とは違う世界から舞い降りてきた少年は、少年の周りの世界を含めて、興味津々(きょうみしんしん)である。学校で家をきいて、さっそく放課後、自転車で遊びにいった。

小学校4年の時の学芸会『一休さん』の写真。前列左端が相川くん、前列左から3人目が私。前列右端が4年担任の立石先生。

 

当時、子供用の自転車を持っているのは珍しかった。父親は、なんでも買ってくれば、私が一人でマスターするので、いろんな物を私に買ってきた。

【相川養三君の思い出-(3)2025-1-21】

 帰り道で聞いていたので、三井造船所の海員クラブの『小島荘』の通用門から入り、従業員用の自転車置き場に自転車を置き、相川くんの住居を訪ねた。相川くんの父親は、上級海員クラブの厨房兼管理の仕事で、『小島荘』の敷地内の通用門近くの、別棟の家屋に、一家で住んでいた。『小島荘』は大きいけれども、彼の家は、私の父親の三井造船所の社宅の家よりも狭く、遊び場所もないのでクラブの娯楽室で卓球をして遊んだ。

 写真は2018年に玉で撮った小島荘の写真。小島荘から内海荘に変わっている。2025年現在、三井造船所は名前も三井E&Sに変わり、往時の主力だった造船部門は旧三菱造船所系統に吸収されている。子供にとって、大人でも、当時は、大きなそして永久に存続すると思っていた三井造船所も、玉の町も、私も、相川くんも、諸行無常である。だから、私はデータを残し、このテキストデータを書いて公開しているのだ。

小島荘の通用門、当時は木製。右側に少し写っているのが自転車置き場、屋根ひさしのある扉が小島荘の裏口。裏口の下駄箱の上に、闘魚(フラメンコダンサー、他の魚を入れるとケンカをして殺す)という綺麗な熱帯魚を、一時飼っていた。

【相川養三君の思い出-(4)2025-1-22】

 玉小の3年の時に同じクラスになってから、小6まで相川くんと私は、ずっと同じクラスだった。私は、活発で勉強もでき、一緒に遊ぶ友達も、玉の町の全包囲にいたが、相川くんは放課後、家から外に遊びにいくことはなく、彼の家に遊びにいく子供も、私以外にいなかった。小島荘のイメージで、玉の子供達には、都会から転校してきたオボッチャンとおもわれて、遊びに誘い、誘われしなかったのだろう。

 以下の文章は、小島荘で、私が「どこのお坊っちゃま?」と見られた体験のテキストをコピペしました。

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 僕が小学5年生の頃の話。岡山県の玉野市玉は市の基盤の三井造船所の工場があり、当時は三井の企業城下町といわれていた。工場の正門の前に三井造船所の運営する『児島荘』という海員クラブがあった。船が修理などのために造船所のドッグに入ってくると、乗組員は自宅に帰ったりするのだが、海員クラブというのは、責任者などがホテルのように泊まったりする施設だ。食事を出し、部屋を提供し、応接室もあり、まだテレビがめずらしい時代にテレビも置いてあり、ビリヤードや卓球などもできた。春休みや夏休みの時期などには都会から同じ年頃の子供を連れた母親も、父親に会いにきて泊っていく。そのクラブの管理と食事を依頼されていた人の息子が僕と同じクラスだったので、よく遊びに行った。クラブには、昼間はもちろんゲストはいないから、子供たちだけでビリヤードなどをして遊んだ。

 三井造船所は地方では大工場であり、進水式(当時は大きな鉄の船も船台で船を造り出来あがると海に滑りこませていた)などがあるため、他の小学校の生徒が貸し切りのバスで見学に来ることがあった。クラブの前がたまたまバスの駐車スペースになっていたのでクラブの前に停車すると、クラブには塀があるのだが、バスのシートの位置が高いから、ちょうどバスの座席からビリヤードをしている僕たちの姿が見える。同じ年ごろの小学生たちは、その高い視点から興味深そうに室内をのぞいていた。彼らに見られている自分は、彼らの中に写った自分のイメージは「金持のお坊ちゃま」がビリヤードをしているということになる。「おい、あんなことやっているぞ!」と憧れや羨望の視線で見られたら、まあ、気持ちはいい。気持ちはいいが、しかし実体はあくまでも違う。実際のところを知られたら何やら恥ずかしい。つまり、お里は知られたくない。当時そこまでは考えなかったけれど、ほんとうにそういう人間にならないとその感覚を味わう資格はないのに……という恥ずかしさと、憧れの眼差しを受ける気持良さとが両方ある。だからちょっと複雑でこそばゆい。本当は違うのに、自力の実力ではなくて、実体は違うのに……という、複雑な居心地の悪い心境だった。

 もうひとつ、子供のときの思い出がある。住んでいた玉野市玉は、岡山県の県庁所在地である岡山市から宇野線で一時間くらい離れていたから、行く機会も年に何度かしかなかった。岡山に行くときは当時はデパートが楽しくて、そこには刺激的なものがあふれていた。家では食べたことのない珍しいものが食べられるし、玩具売り場には玉の「つばめ屋」にはない玩具を売っているし、屋上には遊園地のようなものがあるし、一日中たいしてお金も使わず楽しく過せた。

 岡山に出かけたある時、両親は買い物があるからその間、弟と二人でパーラーで何か好きなものを頼んで待っている、ということになった。そんな店に子供だけで入るのも初めてだし、オーダーも、とりあえず決まりきったものしか知らないから、アイスクリームソーダを頼んだ。出てきたクリームソーダを飲んでいると、二人しか客のいない店にたまたま同年代の女の子が二人で入ってきて、ホットケーキを頼んだ。僕は当時まだ、ホットケーキというものがどういうものなのか、名前は聞いていたが一度も見たことも食べたこともなかった。やがてホットケーキが運ばれてきて、小さなフォークとナイフがついてきた。さらに、蜂蜜みたいなものもついていた。

 それを興味津津に見ていたのだが、何故人の頼んだものが気になるかというと、以前にデパートの大食堂で焼きそばを頼んだら、予想したものと違うものが出てきたことがあったのだ。焼きそばといえばソース焼きそばのつもりで頼んだのに、運ばれてきたのは、とろみのついた具がのっているカリカリしたおかしな焼きそばだった。「おっ? 焼きそばでないじゃないか。どうやって食べるんだろう?」。小皿がついていて、これはなんのためにあるのか分からない。テーブルには醤油やソースや酢等がまとめて置いてあるのだが、なにをどう調合するのかも分からない。実際どうやって食べるのか分からないし、好きなように味付けするといってもよく分からないから「もう焼きそばなんか頼むもんか」と思ったことがある。だからホットケーキのことも興味津々だったのだ。それが僕の性格だから。

 女の子たちは、出てきたホットケーキを小さく切って、左手に持った小さなフォークにさし、それを小さなガラスの容器に突っ込んで蜂蜜か何かをつけて食べていた。蜜は上からかけるはずだが、こちらは食べ方を知らないから、「……ホットケーキはああやって食べるのか」そういうものかと思った。バターもついていたような気がするが、ともかく女の子たちは、田舎者に見えたであろう少年たちがジロジロ見ているから、自分たちは都会の少女なのだからと意識して、意識過剰になって「これどうするの?」なんてお互いに言えずに、私たちはここでいつも食べていて、こういうものはこうやって食べるのよ、と言わんばかりの雰囲気で食べたのだ。そう若い頃は解釈していた。ところが、年を経て自分の経験をつんでからはその解釈も変わった。そうでなく、男の子たち二人がいるというのは、田舎から来ているなんて彼女たちは知らないのだから、子供が二人で大人も付き添っていなくてパーラーにいるなんて珍しいわけだ。むしろこちら二人を、場慣れした都会の子供だと思ったのではないだろうか。僕たち二人をどこかのお坊ちゃんのように思い、そこで自分たちが場違いに思われたくないから、緊張してあのような食べ方をしたのではないだろうかと今は思う。

 周りに写った自分の像と自分自身が本当の自分だと思っている自分の像、自分の中に写った他者の像と他者自身が本当の自分だと思っている他者の像。世の中の人間関係の食い違いのほとんどのことは、この四つの像がそれぞれに独立して食い違っているものなのに、一致していると錯覚してしまっていることが原因なのだ。この四つの像を個別にイメージできれば人間関係のトラブルはかなり減ると思うのだが。シンデレラや水戸黄門などの物語の主人公をこの四つの像に分解して解釈し直せば、なぜ現代でも女性にシンデレラ願望があって、男性に水戸黄門のテレビドラマに根強い人気があるのが分かるだろう。(自著『芸術の哲学』172頁〔どこのお坊っちゃま?〕より)

【相川養三君の思い出-(5)2025-1-23】

 子供のときの私は、興味が全方位なので、とにかく忙しかった。それに、周囲に対する気づかいも、どうすべきか知らないし、その気も回せない。小学4年の時に、同じクラスの岡本くんと、相川くんの家に遊びにいったことがあった。その時に、相川くんの父親が、昼ごはんを手ずから作ってご馳走してくれるという。もともと、お昼時にヨソの家に遊びにいくことに気が回っていない。まあ、社宅で育っているので、同級生の家に遊びに行たとき、その家のお婆さんにいわれたことがあるのだが「社宅の子はガラが悪い」のです。

玉小5年。前列、向かって左から2人目が相川くん、その右隣が私

玉小5年。前列、向かって左から相川、野上、後列、山名、岡野

【相川養三君の思い出-(6)2025-1-27】

 相川くんと私は、小学校では3年から6年生まで同じクラスだったが、中学生になって、同じクラスになったことはない。中学校時代の相川くんとの関係は、中3の時に、自分たちで、学校の備品だが、ガリバン刷りの同人誌『アカシヤ』を3号まで出したときに復活する。

 中2の時に定金先生が、当時の玉中の石井校長のヒキで玉中に赴任してきた。岡大出の新任で、若い独身のロマンチストで、地方の中学校に、特に一部の男子生徒に清新の風をもたらし、生徒の後の人生にも影響を与えた。中学3年生になって、定金先生をバックにするグループができ、そのグループが、同人雑誌を作ろうということになり、それに私も参加して、何編かの文章を書いた。相川くんも、その同人誌のメンバーの一人で、小学校卒業後行ったことのなかった、相川くんの家にも、そのころに、別棟の勉強部屋に友人と遊びにいくこともあった。

向かって左から、相川くん、私、立石くん。テントと食料を持っての、小豆島一周の徒歩旅行。

【相川養三君の思い出-(7)2025-1-30】

 相川くんは、大阪の大学を卒業後、東京の『創文社』に就職、新入社員時代は、創文社のPR誌の『創文』の編集で仕事をおぼえさせられる。私が芸大の大学院の時で、何度か芸大で会ったこともある。

 彼の上司は大洞さんという人で、創文社の雑誌『アルプ』の編集者で、私の玉中時代に、『アルプ』を秀文堂書店で定期購読していたし、アルプ選書で出版された本も何冊か買い、『大空の種族』(ヴァルデマール・ボンゼルス)は読書感想文の文集に掲載されたこともある。そんなことのせいで、大洞さんには、初対面の時から気に入られ、文章を書いてみないかと誘われたが、実現しなかった。

 相川くんの、編集者としての最初の仕事は、『叢書・身体の思想』で、この叢書は、大きなインパクトと成果を人文科学の学術界にあたえた。大洞さんの時代の創文社は『アルプ』的で、文学的だったが、相川くんの『叢書・身体の思想』出版以降、それ以後の創文社の出版物のメインストリームになっていく。

 1971年4月、日本橋画廊での私の最初の個展に、玉中の数人がきて、立石くんと相川くんもそのなかにいて後、谷中の焼き鳥屋で飲んだが、立石くんは何の情報もない東京に就職して、相川くんの中野の家に、ころがりこんできたというところか。

【相川養三君の思い出-(8)2025-1-31】

 相川くんのアパートに立石くんが福岡から上京、立石くんと私が東京で会ったのは1971年4月、日本橋画廊での私の最初の個展、一度きりで、その年の暮れには、会社をやめて福岡に帰った。その時のことは、以前『立石旻君の思い出』で文章にしているので、下記にコピペします。1971年だから、私と相川くんが25歳、立石くんが26歳、昭和の青年の状況は思い出してもセツなくなる。

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『画中日記』2023.05.28【立石旻君の思い出(14)】

『風紋』の129頁に〈 13(火)岡野の個展、「白い月」「星の…」ともに月と星がなければ……と思う。「力」、「黒べえ」、「グランプリ」with 相川〉〈 19(月) 日本橋、ゲルボア、セドリック、入谷で飲む。(相川、岡野等)〉と載っている。これは、1971年4月、私の日本橋画廊での最初の個展で、立石君が東京の建築会社に就職していた時のことだ。19日は、相川、岡野、立石、野上と4人で鶯谷の焼き鳥屋で飲んだ。

私は、千葉への転校、芸大への入学、それ以後の、東京での流浪と、状況の激変を抜け出して、やっと、生活の明るい見通しが立ち始めた時だ。立石君は、この時東京に来て間もなく、東京での生活は、ブラックアウトの状況だったろう。こんな時は、周りの状況をまず、正しくよく知るということが大切で、視界が狭い中を無理に動くと、座礁してしまう。立石君と私は、その時一緒に飲んでいても、見える風景は違うのだ。

『画中日記』2023.05.29【立石旻君の思い出(15)】

立石君と東京で会ったのは、1971年4月のその時だけで、その年の暮れに相川君と会った時には「アッちゃんは、九州に帰った。会社でビラを貼り出して、会社をやめたらしい」と言っていた。だから、立石君の東京での生活は1年続かなかった。

立石旻遺稿集『風紋』は、パソコンのない時代に、481頁の、しかも、本人の元原稿も集め、散逸した手紙類も、年譜も、手作業で行ないこの本を現成させた編集者の努力と、能力と、友情は素晴らしい。

下記に『風紋』の年譜から、東京での、立石君の生活の様子を抜書きします。

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昭和46年(1971)26歳

(前略)

地元での就職を探したが見つからず、急遽、山口の行くS建築設計事務所へ入所が決まり上京する。3月30日より、中野の相川宅で共同生活(岡野注;実際は、東京を知らないので、相川君の、狭い昭和の木賃アパートに転がりこんだのだろう。相川君も関西学院大を卒業後創文社に就職)。4月、岡野浩二の個展を観る。カードには建築技術書からの抜書もみられ、仕事に負けずに取り組もうとする生来の生真面目さがあらわれている。5月、タクシーの中に大事にしていたカードを一部紛失。この頃から短歌が残されている。所員の待遇改善に端を発した討論を組織していくなかで、「労学通信」(№1~9)を自主レポートする。なお自主ゼミには、修士に進学した美術部OBの佐野誠嗣が新たに加わる。5月15日、杉並区和泉に間借。8月、所内に公開質問状を貼り出す。孤立の状況で再度、同志結合体を求めて九州に帰ることを決意する。10月6日、帰福する。

 

【相川養三君の思い出-(9)2025-2-5】

 相川くんと会ったのは、私が、個展後札幌に転居していた時に、彼が夏休みに遊びに来て数日すごした。子供の頃玉の映画館で見た『ターザン』の、探検隊のかぶる内部がコルク張りの帽子をかぶってきたことを覚えている。

 相川くんが、奥さんの智子さんと結婚したのはいつだったのだろう。私が千葉県市原市の農家を借りていた頃なので、1975年から1981年の間だろう。(注;1975年)

 玉小、玉中出身、同人誌『アカシヤ』の仲間で東京に就職していた野上くんに聞いたところ、1975年(29歳)だったとのこと、野上くんは結婚式には会社の出張中で出られなかったそうだ。式場は目黒の八芳園で、岡山からは定金先生と井上くんと福山くんが上京して参列した。

 式後、新幹線の岡山行き最終時間まで、岡山からの4人で銀座の当時私のいきつけのバーの『ケイタロー』にいく。定金先生が、銀座での勘定を心配しているので、当然私が払った。当時の画家は、展覧会が多く、飲む機会も多いので、自分のテリトリー内に、いくつかの店を知っているのは必須なのだ。『ケイタロー』を含め、画家連中のよく行く店は、居酒屋も含め、たいした金額ではないし、またそういう店をさがすのがウマく、仲間内で紹介しあうので、自然とオプションも増える。ということで、定金先生の、私に対する評価が爆上がりだった。

 当時の店はもうないし、私自身アトリエから出なくなったので、たまに銀座に出ても行くところがなく、孤愁を感じる。昭和の青年は、なんであのように集まって遅くまで飲んでいたのかなぁ。そしてその間、何をしゃべっていたのかなぁ。

【相川養三君の思い出-(10)2025-2-7】

 

『画中日記』2022.12.01【『風者小屋だより』ドーデ 作 の本ツナガリ①】

 『宗教と人生』玉城 康四郎 春秋社の抜書きを11月22日に了え、先日より、フェイスブックにアップも兼ねて、【読書ノート】にドーデの『風者小屋だより』を抜書きしている。

 この本は、中学生の時に読んだのだが、9月の室蘭ユースホステルの談話室の本箱にあったので、帯蘭中に読み終えた。帰柏してネットで購入し、今、フェースブックにその本の中の一編「老人」を全文少しづつアップしている。

 中学生の頃は、国木田独歩が好きで、小学6年生の時の担任の広畑先生は、その頃午前11時のNHKの朗読の番組を、授業中に時々生徒に聴かせていた。たまたま、あるとき、国木田独歩の『春の鳥』を放送、私は学校の図書館にあった、あかね書房、滑川道夫編、少年少女日本文学全集の国木田独歩の「春の鳥」を読んでいたので、いっそう本好きになった。

 この本は後年、芸大生の頃、神田の古本街で手に入れていたのだが、先年処分した。

『画中日記』2022.12.02【『風者小屋だより』ドーデ 作 の本ツナガリ②】

 国木田独歩の影響で、自然主義的というのか、ロマンチックな旅や自然の本を学校の図書館や、玉の町の秀文堂で探した。この頃の本の値段は、他の値段と比較して高かったが、本を買う時は、親は何もいわずにだしてくれた。

 秀文堂では、小学校低学年の時は『漫画王』、小学校高学年の時は『子供の科学』中学校3年の時は『アルプ』という雑誌を定期購読していた。『アルプ』には、色んな情報が載っていて、そのあたりから『風者小屋だより』にたどりついたのだろう。この本を、9月に室蘭に絵を描きにいったときの宿泊先、室蘭ユースホステルの談話室の書棚で再会したのだ。

 私の玉野での同級生の相川養三氏は、神戸の私大を出て、東京の出版社の創文社に就職して編集者として活躍したのだが、『アルプ』という雑誌は、創文社で出していたのを、相川君経由で知る。そして『アルプ』の編集者は、当時新入社員の相川君の上司の大洞氏だったという。そのつながりで、私は大洞氏とも知り合い雑誌の『アルプ』はなくなったが、創文社のPR誌の『創文』に文章をたのまれたのだが、その当時は、絵の制作に忙しくそのオファーは果たせなかった。

 とにかく、過去に読んだたった一冊の本が、自分の人生を含めて、他者にも広がり、内部も外部も境界なく、時間も空間も別々にあるのではなく、世界はそういうふうに有るのだネ。

 

【相川養三君の思い出-(11)2025-2-9】

 相川くんが結婚し、JR中央線のどこの駅だったか、新居に、結婚式に出席できなかった野上君とたずねた。新婦の智子さんは、紹介されてすぐに、別の部屋に引っ込み、話はしなかった。玉の女性は、外交的でおしゃぺりで、カカア天下になるタイプが多いので、出身地はどこだか知らないが、ロマンチストの相川くんにはお似合いだと感じた。岡山の女性には、そもそも相川くんは(立石くんも、私も)理解されないだろうし、いっしょになればカカア天下になって、相川くんの世界観はスポイルされるだろう。結婚が二度とも失敗し、独居老人の私と違って(私の場合、それが幸せですが)、その後、相川くん夫婦は平和で、幸せな家庭生活を過ごした。

 男3人で話もハズまないし(こういうときに、デッパリの女性はその場の話をシキろうとする)、時間もあるので、部屋に活けていた水仙の花をスケッチして、あげた。この時の、スケッチブックや画材は、相川くんの家にあったもので描いた。

サインの年号は、1976年1月の間違いでした。

【相川養三君の思い出-(12)2025-2-11】

 相川くんは、私の東京での個展で数回会ったが、以前のようにいっしょに飲むことはなかった。最後に、いっしょに飲んだのは、野上くんがフルブライト留学生に選ばれ、それを祝う席を、銀座の『江戸源』の2階の座敷の一室を私が予約して、玉の同級生四人(野上、相川、清水、岡野)で、飲んだ時だ。野上くんが、実際にアメリカに出発したのは、1982年9月8日だそうなので、合格祝いの席は、その前だから、その時は私は柏に引っ越したばかりの時なので、1981年(35歳)の冬だったろう。『江戸源』は読売新聞社の村瀬氏に教えられ、村瀬氏の父親がよくかよっていたらしい。私の回遊路の一つで、以前新橋の芸者置屋だった家を1階をおでん中心の居酒屋、2階の座敷を、予約の会席料理にして、稲垣利江子さんがやっていた。写真の本は、女将さんの自伝の本で、当時出版され、売上金は、当時の難病の川崎病のために寄付するとのことで、ニューカマーのお客は入場券代わりに買わされた。私も買ったが、ツンドクで、結局完読できなかった。相川くんにも買って渡した。

 

【相川養三君の思い出-(13)2025-2-11】(最終回)

 『江戸源』の2階で、4人で会食をしている途中に、私に外から電話がかかってきた。当時は、携帯電話はまだなく、私は普段、家で絵を描いているので、そんなことは初めての経験だ。コードレスの固定電話の子機(これもまだめずらしい)を、2階の部屋に、江戸源では初めてみる若く、美しい女性が持ってきてくれた。電話はその当時、デパートでの絵の販売に、新しく参入してきた、オンワードの美術部の清水氏からで、博多大丸での私のはじめての個展の用件だった。同級生の前で、私の回遊している店に、外から電話がかかってくる。なんで、と思いながら、妙に嬉しいもんだね。これが、「鼻高々」という感情か、英国屋でオーダーでブレザーを作ったり、当時10万円くらいしていた、バーバリーのコートを丸善で買ったりして、若く修行が足りず、足元がうわついている行動が、今の、歴戦の老画家からみると恥ずかしく、あぶなっかしい。諸行は無常である。相川くんが取締役までなった創文社もなくなり、相川くん本人は逝去し、『江戸源』は閉店し、オンワードの美術部もなくなり、私は後期高齢者の独居老人だ。

 

 相川くんは、その後、所沢に家を買い、彼の両親を引き取り同居するのだが、父親の引越しの荷物に、檜の風呂を持ってきたということである。父親がまだ元気な時に、自分の将来、家を建てた時のために買ったもので、一度も使わず、引越しのたびに持ち続けていたそうだ。セツないねぇ。自分の一生の存在証明が、檜の風呂なんだよ。どんなに自分では大切なものでも、関係の糸が切れればゴミになる。諸行無常の法の前には、万物は逃れられないんだよ。

 相川くんの編集した叢書『身体の思想』の他、創文社で編集した本は、検索すればすべてヒットするだろうし、私の描いた絵は、どこかにある。大洞さんの編集していた雑誌『アルプ』はいまだに古本で高値だし、稲垣利江子さんの『祈り旅』も、私は処分したけれど、アマゾンでヒットした。世界は、残すべきものは残してくれるだろう。

後日談

フェイスブックの投稿終了後、相川くんのご子息から、フェイスブックにコメントがとどいた。その結果、水仙のスケッチのデータも手に入った。そのやり取りを、下記にコピペします。
相川’S SON

初めてコメントさせていただきます。相川養三の息子です。(実名ではなく、仮名でやっております)
このたびは、父の足跡を残していただきありがとうございます。
母から岡野様がfacebook等で父の話を書いてくださるらしいと伺い、拝読させていただいておりました。なお、失礼ながらfacebookをやっていない母と姉には自分から別途共有させていただきました。
生前の父は、自分が中高生ぐらいになって以降はその時携わっている仕事の話をよくしてくれたのですが、あまり昔を振り返らない性格だったのか岡野様のように詳細に覚えていなかったためか、学生時代や入社当時の話は自分は聞いておらず昔の父のことを知ることができて大変感謝しております。
書いていただいた文章を読んで、母は新婚当時の頃の父を鮮明に思い出して、すこし涙ぐんでしまうと話しております。
また、連載の途中で、母から岡野さんが遊びにいらしたときに絵を描いていただいた、と大事に保管してあったスケッチブックの花の絵を見せてくれました。その後、絵を描いていただいたお話が最後の方に出てきて、母との話が聞かれていたかしらと思ってしまいました。
長文・乱文で失礼しました。
父との思い出を綴ってくださり、誠にありがとうございました。

岡野岬石

コメントありがとうございます。フェイスブックやユーチューブは昔から、発信一方でどこか、誰かの目に止まればいいとおもい、続けています。思わぬ相川くんのご子息の目に止まり、コメントを送ってもらうとは、テキストを書き、写真を探し出す苦労が報われます。テキストと写真は、プリントアウトして貴方のお母さんに送ろうと思っていたのですが、もう読まれていたのでしたら、送るのは止めます。『相川君の思い出』は【岡野岬石の資料蔵】のサイトに保存しますが、その時に、スケッチブックに描いた水仙の絵をアップしたいのですが、貴方がデジカメかスマホで撮って、こちらの、メッセンジャーに送ってくれませんか。宜しくお願いします。

相川’S SON

ご返信ありがとうございます。
母にも共有してさせていただいておりますので、郵送は大丈夫です。お気遣いありがとうございます。
資料蔵にアップいただきましたらオープンに見れるので、そちらを見るよう母に伝えます。(資料蔵のサイトは、亡き父と一緒にたまに拝見してたと言っておりました)
花の絵については手元に写真がありますので、のちほどメッセンジャーにて送信させていただきます。

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