相川養三君の思い出
【相川養三君の思い出-(13)2025-2-11】(最終回)
『江戸源』の2階で、4人で会食をしている途中に、私に外から電話がかかってきた。当時は、携帯電話はまだなく、私は普段、家で絵を描いているので、そんなことは初めての経験だ。コードレスの固定電話の子機(これもまだめずらしい)を、2階の部屋に、江戸源では初めてみる若く、美しい女性が持ってきてくれた。電話はその当時、デパートでの絵の販売に、新しく参入してきた、オンワードの美術部の清水氏からで、博多大丸での私のはじめての個展の用件だった。同級生の前で、私の回遊している店に、外から電話がかかってくる。なんで、と思いながら、妙に嬉しいもんだね。これが、「鼻高々」という感情か、英国屋でオーダーでブレザーを作ったり、当時10万円くらいしていた、バーバリーのコートを丸善で買ったりして、若く修行が足りず、足元がうわついている行動が、今の、歴戦の老画家からみると恥ずかしく、あぶなっかしい。諸行は無常である。相川くんが取締役までなった創文社もなくなり、相川くん本人は逝去し、『江戸源』は閉店し、オンワードの美術部もなくなり、私は後期高齢者の独居老人だ。
相川くんは、その後、所沢に家を買い、彼の両親を引き取り同居するのだが、父親の引越しの荷物に、檜の風呂を持ってきたということである。父親がまだ元気な時に、自分の将来、家を建てた時のために買ったもので、一度も使わず、引越しのたびに持ち続けていたそうだ。セツないねぇ。自分の一生の存在証明が、檜の風呂なんだよ。どんなに自分では大切なものでも、関係の糸が切れればゴミになる。諸行無常の法の前には、万物は逃れられないんだよ。 相川くんの編集した叢書『身体の思想』の他、創文社で編集した本は、検索すればすべてヒットするだろうし、私の描いた絵は、どこかにある。大洞さんの編集していた雑誌『アルプ』はいまだに古本で高値だし、稲垣利江子さんの『祈り旅』も、私は処分したけれど、アマゾンでヒットした。世界は、残すべきものは残してくれるだろう。
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後日談
フェイスブックの投稿終了後、相川くんのご子息から、フェイスブックにコメントがとどいた。その結果、水仙のスケッチのデータも手に入った。そのやり取りを、下記にコピペします。 |
相川’S SON
初めてコメントさせていただきます。相川養三の息子です。(実名ではなく、仮名でやっております)
このたびは、父の足跡を残していただきありがとうございます。
母から岡野様がfacebook等で父の話を書いてくださるらしいと伺い、拝読させていただいておりました。なお、失礼ながらfacebookをやっていない母と姉には自分から別途共有させていただきました。
生前の父は、自分が中高生ぐらいになって以降はその時携わっている仕事の話をよくしてくれたのですが、あまり昔を振り返らない性格だったのか岡野様のように詳細に覚えていなかったためか、学生時代や入社当時の話は自分は聞いておらず昔の父のことを知ることができて大変感謝しております。
書いていただいた文章を読んで、母は新婚当時の頃の父を鮮明に思い出して、すこし涙ぐんでしまうと話しております。
また、連載の途中で、母から岡野さんが遊びにいらしたときに絵を描いていただいた、と大事に保管してあったスケッチブックの花の絵を見せてくれました。その後、絵を描いていただいたお話が最後の方に出てきて、母との話が聞かれていたかしらと思ってしまいました。
長文・乱文で失礼しました。
父との思い出を綴ってくださり、誠にありがとうございました。
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岡野岬石
コメントありがとうございます。フェイスブックやユーチューブは昔から、発信一方でどこか、誰かの目に止まればいいとおもい、続けています。思わぬ相川くんのご子息の目に止まり、コメントを送ってもらうとは、テキストを書き、写真を探し出す苦労が報われます。テキストと写真は、プリントアウトして貴方のお母さんに送ろうと思っていたのですが、もう読まれていたのでしたら、送るのは止めます。『相川君の思い出』は【岡野岬石の資料蔵】のサイトに保存しますが、その時に、スケッチブックに描いた水仙の絵をアップしたいのですが、貴方がデジカメかスマホで撮って、こちらの、メッセンジャーに送ってくれませんか。宜しくお願いします。 |
相川’S SON
ご返信ありがとうございます。
母にも共有してさせていただいておりますので、郵送は大丈夫です。お気遣いありがとうございます。
資料蔵にアップいただきましたらオープンに見れるので、そちらを見るよう母に伝えます。(資料蔵のサイトは、亡き父と一緒にたまに拝見してたと言っておりました)
花の絵については手元に写真がありますので、のちほどメッセンジャーにて送信させていただきます。
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