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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『モランディとその時代』 岡田温司著 人文書院

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『モランディとその時代』 岡田温司著 人文書院

■アルカンジェリのこの「辛口採点」は、ロンギの目にとまり、ロンギが主幹する雑誌『プロポルツィオーネ』(1943年)に「イタリアの若い絵画とその病根について」と改題され、増補されて再録される。なぜアルカンジェリは、同じ抵抗の世代として共鳴し期待もしていた、「若い絵画」に苦言を呈することになってしまったのだろうか。それはなによりも、ビロッリがファン・ゴッホに、グットゥーゾがピカソにあまりにもやすやすと飛びついてしまったからにほかならない。そこに認められる、歴史的な動機づけの欠如と皮相な新ロマン主義を、アルカンジェリは鋭く批判するのである。

「時代の苦悩」、「反発の運動」、「論争の行動」といった表現によって、これら「新ロマン主義者たち」の存在は正当化されることになるかもしれない。もちろん、どんな世代も、どんな芸術の時期も、先行する世代や時期にたいして不満や不安を抱く権利は認められている。だが、傑作にたいして駄作で論争を仕掛けるということが、ほんとうに可能なのだろうか。この場合、カッラやモランディにたいするビロッリやグットゥーゾの論争は、適切なものなのだろうか。(148頁)

■かってアカデミー教官時代のモランディの学生だった画家マンデッリもまた、興味深い回想を残している。マンデッリはあるとき、すでに流布していた例の「モンドリアンのようなモランディ」という評価について、画家本人に問いただしてみたらしい。すると、大先輩の画家からは、「そんなことを言うのは、何も知らない輩だ。言っておくが、わたしは、算術的な計算はいっさいしないし、定規やその他のばかげたものもいっさい使わない。すべてを眼でおこなって、本能に導かれるにまかせているだけのことだ」という返事がかえったらしい。モランディが、いかにモンドリアンの作品と、それに比較しようとする批評の言説を意識していたかを示すエピソードである。

第1章で見たように、アルカンジェリは、この時期のモランディに特徴的な中心性と幾何学性を、抽象表現主義のオールオーヴァーな画面にたいする「論争」であると解釈したが、むしろ、モンドリアン風の幾何学的抽象にたいする一種の挑戦であり、モランディ=モンドリアン説を唱える一部の批評にたいする挑発であったとも言えるのではないだろうか。モランディは、おそらくこう主張しようとしているように思われる。自分はあくまでも眼に見えるものから出発する。自分は、タブローを数的次元へと還元することはしない。自分は、光やタッチやマチュエールの感触をあくまでも重要視する、と。そのためには、敵陣にできるだけ近づいて、相手の戦術の裏をかく必要がある。モランディが1950年代、「抽象的」とも形容された画面構成にもっとも接近したとすれば、それはおそらく意識的な選択によるものであったと、わたしは考える。くり返すが、「眼に見えるものより抽象的なものは何もない」という有名なせりふは、このような文脈のなかで理解することができるだろう。すでに60歳を超えても、モランディの歩みはとどまることを知らない。(189頁)

■これらの論文において、ロンギは、見たものをことばに置き換えるその独特の才能を駆使して、作品の主題や内容とはほとんどかかわりなく、純粋に造形的な観点から作品を記述し、再評価しようと試みる。すると、過去の画家たちの遺産も、まるで現代の画家たちの作品と同じように、色彩や光、フォルムやヴォリューム、線や面、構図や空間といった造形的な諸問題をめぐる探究の産物として立ちあらわれてくるのである。ロンギにおいて、過去の芸術を見る眼差しとのあいだに本質的な差はない。あるいは、現代美術の経験と過去の美術の評価とのあいだに、実り豊かな相互作用が成立していると言うべきであろうか。そこにこそ、ロンギの「純粋造形批評」の真骨頂がある。それゆえ、後年になってロンギ自身も認めているように、彼のクールベ体験がカラヴァッジョを、セザンヌ体験がピエロを再発見させる原動力となっていたとしても、おそらく偶然ではない。(257頁)

■これにたいして、デ・キリコは、ロンギの批評にそれはど関心を示さなかったようである。それどころか、ロンギのほうから、デ・キリコにいわば決闘状が突きつけられているのである。1919年、『イル・テンポ』にロンギが発表した辛辣な評論「整形術の神様へ」がそれである。未来主義への共感から出発した、論争好きで戦闘的な若いフォルマリストにとって、謎めいた内容をこれ見よがしに暗示させようとするデ・キリコの形而上絵画は、あまりにも文学的で観念的、ロマン主義的で北欧的なもの(ニーチェ、ベックリンなどに啓示を受けた)に映ったのだった。その意味ではモランディも、密かにロンギに賛同していたかもしれない。もちろん、モランディがデ・キリコを批判した形跡は、わたしの知るかぎりいちどもないが、ふたりの差異は、それぞれの形而上絵画のなかにはっきりとあらわれている。(258~259頁)

■ 描くべき現実、いまこそ私はそれを悟ったのだが、それは主題の外観にあるのではなくて、その印象の深く浸透する度合いにあった。その深みにあっては、いかほど多くの人道主義、愛国主義、国際主義のお談義よりも貴かったあの皿の上のスプーンの音やナプキンの糊づけの固さが象徴しているように、どのような外観も問題ではなかった。〔「見出された時」井上究一郎訳〕

大戦の直後にプルーストが著したこの一節は、モランディの絵画へのこのうえなく適切な導入であり続けている。フォルムを介して、フォルムの奥を掘り下げることによってのみ、また色調の「追憶」を積み重ねることによってのみ、純粋で無欠の感情の光へと行き着くことができる。実際、ここにこそ、モランディの内奥の教訓があり、最小限に遍歴する彼の主題の還元の意味がある。いずれにしても、全速力で疾走して作品と鑑賞者をむさぼり食うような図々しい主題の撤廃である。無用の対象物、見捨てられた風景、季節の花たち、これらは「フォルムで」表現されるに充分であるというよりも、そのための口実なのである。なるほど印象主義やポスト印象主義においても、すでに静物や風景や花が支配的であったが、それはなお好ましい契機であり、強く望まれた「モティーフ」の企てであった。これに対して、モランディでは、絶対的な抽象主義の暗礁を避けるために充分な語彙であり、必要なシンボルであるにすぎない。まさしく彼は、同じ素材の口実のうえで、さまざまな感情の機微を表現し、その端正で澄みきった挽歌をさまざまに奏でることができたのである。(314~315頁)

(2012年3月12日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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