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「特異点」についての考察

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過去の『画中日記』から

『画中日記』令和元年(2019)11月08日【「特異点」についての考察①】

 球の表面はどこも平等で、特異点がない。ところが三角錐というのは、頂点は他の場所とは異なる。こういうのが特異点で、時間でいえば始まりとか終わり。ビッグバンの一番の始まりは、特異点になる、現在の時間・空間とは違って特別の点になる、尖ったところになる。

 特異点をなくすのが、現代物理学の課題だ。どうして特異点があると困るのかというと、そこだけ、法則が違う。今までの真理とされているものが、そこだけ違うというものになると、自分たち物理学者が一生懸命に証明しようとしたものまでも、そこだけ特別の、一種の神様というか、特別の飛躍したもの、別世界になってしまう。それが特異点で、これをなんとか消して、説明しようとする。ビッグバン以前の時空と以後の時空が特異点なしに継がらないと「無」から現世界の「有」へとの継がりが説明できない。

 (続く)

『画中日記』令和元年(2019)11月09日【「特異点」についての考察②】

 人間の存在、そしてまた個人である自分自身の存在は、最大の特異点だろう。目の前のリンゴも特異点だ。香嚴も竹も石もカンという音も特異点だ。個々の特異点を否定しないで、時空の円錐の特異点を消せないのだろうか。

 10年ほど前に、私はいいアイデアを思いついた。球(中身のないシャボン玉の表面のような時空、中がムクだと内外の問題が新たに発生する)の上を、円錐形で埋め尽くしたらどうだろうか。つまり、特異点だらけというだけでなく、特異点が当の球の表面を成形していると考えたらどうだろうか。空間と物とを分けて考えないで、特異点そのものが、全体を構成していると考えたらどうだろうか。

 世界存在のゲシュタルトをそのようにイメージすると、実存主義のように、人間、自我意識一元論では自分の誕生と死以外の時間と自分以外の世界の存在を説明できない。ハイデッカーが人間の現実存在のことは言い得ても、存在一般(物)の事は言い得なかったように。

 実存主義では、自分の誕生と死が特異点になるように、もし、この宇宙がたった一つだけなら、宇宙の誕生と死は特異点になる。全ての特異点の誕生と死、生成と消滅を考えれば、この宇宙の誕生と死もありふれた出来事だろう。ということは、この宇宙空間以外に、並行宇宙だけでなく、無数の宇宙が存在しているということになる。

 自分が特異点であるように、他者も、動物も、昆虫も、植物も、物自体も、地球も、銀河も、この宇宙も特異点である。オールオーヴァーで平等に而今に現成公案している。そして、万物は時間(因)と空間(縁)で諸行無常、不増不減に生成、消滅している。特異点は生成、消滅するけれど、全体の存在の有時(うじ)は、存在の設計図である法(ダルマ)が通貫している。どうですか、2400年前のお釈迦さま、800年前の道元の言っているとおりでしょう。これが、昨年私が上梓した『全元論』の骨子です。(続く)

『画中日記』令和元年(2019)11月10日【「特異点」についての考察③】

 ビッグバン以前も、この宇宙で証拠を見つけるのは不可能かもしれないが、理論的にはそのうちに解明されるだろう。

 話は変わるが、私は昔から人格神にたいして、素朴な疑問を持っていた。世界を人格神が創造したのなら、神がいる周りの時間や空間は誰がつくったのだろうか、という疑問だ。

 一神教のヘブライズムと、世界を分けて分けていって根源的な、これ以上分けられない1を見つけようとするギリシャ哲学とが融合して、展開してきたのが西洋の世界観だ。「1」に「1」に収斂する。1に収斂しない現実世界の現象は、パラドックスとしてとりのこされる。

 世界の中に存在する物は、実体の周りの空間と実体の内部にも空間を抱えている。細胞も、分子も、原子も、空間を抱えている。原子をもっと分けていったら、素粒子になるが、素粒子を粒という内部を持たない実体と考えると、エネルギーと分割前の内部空間はどこにいったのか。

 本来、物は分割できるけれど、空間を分割していって素空間というものは存在するのだろうか。

(続く)

『画中日記』令和元年(2019)11月11日【「特異点」についての考察④】

 存在するものはミクロもマクロもすべて動いている。固体を構成する原子の内部も動いている。素粒子もスピンというかたちで動いている。物質界に動かないものは存在しない。動きには、時間と空間が含まれている。つまり、部分という内部空間を持たない粒という実体と、静止という時間を持たない存在はこの世界には物質、実体としては無いということです。

「諸行無常」「諸法無我」です。

(続く)

 『画中日記』令和元年(2019)11月23日【「特異点」についての考察⑤】

 点という、時間も空間も持たない抽象的な概念を、物としてこの世にダウンロードしたものが素粒子だとして、その形態が粒状の固体だとして考えるから「光は波か粒か」というような問題がでてきたのではないか。数字という、空間的イメージはあるが時間を持たない抽象的な概念を、実有(じつう)という存在世界にダウンロードするときに、やはり、粒状の固体的イメージを持つから、様々な数学的パラドックスが出てくるのではないか。(今最新の「非可換幾何学」は、「超弦理論」と同じく数学の新しい地平を拓くだろう)

 現実世界は諸行無常である。昨日のリンゴは今日のリンゴではない。設計図は現実の建物ではない。紙の上に落とされた設計図そのものも、物としては劣化する。

 お釈迦さまの説く法(ダルマ)や、超越としての「真・善・美」、プラトン的イデア界は三界(全世界 )を通貫している。

 画家は、通貫している抽象的な法を、自我の貪瞋痴(とんじんち)のバイヤスをかけないで、正確にダウンロードしなければならない。「美」を目指せば、当然そうなるはずだ。

(続く)

 『画中日記』令和元年(2019)11月25日【「特異点」についての考察⑥】

 コップの水を半分飲む。残った水をまた半分飲む。こうやって順次繰り返していくと、最後には水が1個になる。これが水の分子だ。水の分子は、水素原子1個と酸素原子2個で出来ている。出来てはいるが、水も水素も酸素も特異点だ。

 小学生の時に分数を習い、分数とは分子の数を分母で割ったものだと教わった。

 1/3+1/3+1/3=1である。

 1÷3=0,3333… 1÷3=0,3333… 1÷3=0,3333…

 0,3333…+0,3333…+0,3333…=0,9999…

 1=0,9999…

 これが、納得いかない。先生は納得いく説明をしてくれない。自分でもつい最近まで説明できなかった。

(続く)

『画中日記』令和元年(2019)11月26日【「特異点」についての考察⑦】

 0,99999…=1=0,00000… 無限個…1

 これが正しいのならば、そのまままるごと認め、今までの概念世界を、認めた概念世界に修正するしかない。存在の設計図から、存在世界の有に落とし込む時には、確率が入るのはさけられない。まず。正法 (しょうぼう)を間違いなく正確に設計図に描かなければならない。次に、設計図からプラトンのいう似姿をこの世に顕現させなければならない。この行為を存在自体が全体で成してきた結果が「今、ここ」だ。

 ミクロもマクロも、ジョン・シュワルツの超弦理論、エドワード・ウィテンのM理論、数学の非可換幾何学、天文学のブラックホールの撮影、完全な理論的産物である質量0のヒッグス粒子の発見、量子コンピューターの量子ビットの概念など、すべて、ナチュラルな世界概念を根本的に変えなければ理解、認証できない。理解、認証できないからといって、世界はそうなっているので、世界=内=存在の人間ごときがドウコウしようがないし、ドウコウできない。

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