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⑴「全元論」という言葉が現れるまで

投稿日:2022-01-23 更新日:

⑴「全元論」という言葉が現れるまで

全元論とは僕が作った言葉です。全元論という言葉が頭に浮かんだ時に、それがキーワードとなって、これまでいくつか分かれて島になっていた僕の世界観は、一気に整理され、結びつき、構造化され、統合されました。これは西洋哲学とはまったく異質な、世界観の流れです。西洋の世界観は、ギリシャ哲学を発端とし、分けて、分けて大元(おおもと)の一を探ろうとする、いわゆるアトム論です。

物だったら原子(アトム)になるのですが、部分のない純一な無垢の存在を見つけ、さらに根源的な一を解明すれば、多様な世界も根源的な一から派生したのだから、この多様な世界のすべてが解明できるという。原子が見つかれば原子の組み合わせで多様な物質が構成される。多様な物質の大元は何かということを、原子を分けていくことによって根源を探ろうとする。それが一元論です。一に一とに収斂されていく。歴史ならば、この世の最初の原因は何であるか…というように一に収斂しようと考える。

ギリシャ哲学は、やはり一なる神の宗教であるキリスト教と、結びつき融合して教父哲学やスコラ哲学の世界観を生む。キリスト教でいうと「神の一撃」によって世界は神が造ったと考えた。現在の、多様で複雑な世界存在の大元は、第一原因であるというのがその思考。今存在するものは、何らかの原因の結果であるとして、原因を順々に過去にさかのぼっていくと、第一原因があるということになる。未来に向かっては、神の似姿に作られた、つまり神になりたいという人間は、究極目的というものを定めて、世界を第一原因から究極目的まで、だんだんと進歩していくのだと考える。そういう思考がヘーゲル等のものであり、さらに究極目的に向かってしだいに良くなるというのが目的論的歴史観の進歩史観です。

それがヘーゲルの思考であるし、ヘーゲル左派のマルクスなどはヘーゲルの死後に、進歩していく課程をどう考えるかというと「歴史は弁証法的に進化する」と主張した。そういう思考が僕よりも前の世代の左派の、デモに行くような人たちの歴史観だった。「弁証法的に進化する」と言うと少々格好いいわけで、僕もそういう思想の先生から随分と聞かされたものだ。

弁証法的というのは、討論の方法論からきている。つまり、まずは正があって、正の矛盾を反がぶつけてその矛盾を合一(アウフヘーベン)させて、正・反・合、正・反・合と、歴史は矛盾を一つずつ解消させて最終的には矛盾のない世界になる、というのが弁証法的歴史観です。人間を唯物的にとらえ、社会を経済でとらえ当てはめると、西洋社会は多くの経済的階層(ヒエラルキー)が存在している。歴史は、その階層を一段づつ弁証法的に止揚(アウフヘーベン)して解消し、その最終段階の一歩手前が、資本家と労働者という訳で、最終段階が共産党の一党独裁だ。これも、分けて、分けていく考えで、分別された階層や思想が抹殺されたことは、近代史に明らかです。

弁証法的には、「反」というのは、今あるものに反旗を翻すという行為にも、反対、反対と主張する人たちにもきちんと理由があるということ。革命する側にとって都合の良い大義名分、お墨付きをもらったわけです。きちんとした歴史の後ろ盾があるということで、毛沢東も「造反有理」と紅衛兵を煽動した。造反することには理がある、として「反対、反対!」というのが、ずっと続いてきた。無政府主義やダダイズムの、代案無しの反秩序、反権力、反体制、永久革命の世界観歴史観は、現在もグローバリズムという形で世界の底流に残っている。文化的には、ほとんど反体制、反宗教、反秩序、反芸術的なものが席巻してきた。それが現代の西洋哲学、西洋芸術の流れです。

しかしここに来て、西洋哲学も共産主義も思うように行かない。アメリカでも、ポストモダン的人間主義、つまり人間の力や欲望を思うままに解き放ち、経済力と軍事力でヘゲモニーを握った。「自由と平等」「ヒューマニズム」というわけである。それにさらに富と力があれば、文明は進歩して良くなるとされてきた。しかし現在、全部がうまくいっていない。共産主義も行き詰まっているし、一時もてはやされた「アメリカンドリーム」もすっかり影が薄くなっている。

そういうときに僕はイーゼル絵画と道元に出会い、水の流れのように全元論に導かれた。出会ったときに「これは間違いない。世界はそうなっている。歴史はそうなっている」という確信を得た。この考えが、正しい。だって道元もお釈迦さまも正しいし、正しいから諸行無常の世界を残ってきたのだ。この全元論が世の中に広まれば、世界は確実に良くなる。仏教的というか日本的というか、この考えは本当に奇跡のように残ってきたのだ。

道元から800年後の自分が、まったく関係のない分野の芸術から取り組み始めて、奇跡のように残っているものに出会えた。また、日本と日本人のこともたいへん奥深い。平成25年に式年遷宮が行われたが、長年にわたって遷宮を繰り返してきた伊勢神宮は、まさに奇跡である。過去のものではない。あえて作り替え、過去から現在に生き続けている。世界遺産とは、全く概念が違うのです。

これから日本はますます良くなるし、世界も全元論的な世界が浸透すれば、世界中が良くなっていく。まあ、人間の実存がやっているのではないから、また人間の実存がやれるものではないので、良くならなくてもいいのだけど、ともかく存在は、全部、全体が一である、全体で一であるものが、今、ここに「現成公按」しているのだ。

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